お檀家さんのお宅に、ご法事などでお参りに伺った際、たびたび「和尚さんに拝んでもらえてありがたい」とお話しいただけることがあります。これは非常に光栄なことだと思います。私は謙遜のつもりで「ありがたいのは和尚が拝むことではなく、みなさんが一緒に手を合わせる姿がありがたいんですよ。」と答えていました。
このやり取りを思い返し、行じてくださるお檀家さんに沿った受け答えができたのかな、と納得していた思いがありました。
しかしこれを繰り返すうちに、私の返答は自意識過剰なのではないか?お檀家さんの思いを拒んでいるのではないか?と疑問を持つようになり、果ては私がその言葉に値しているのだろうか?と感じ始め、その葛藤がストレスとなっていきました。
ある日、別のお宅で同じようなやり取りの後「その時は和尚さんに対して、私がありがたいと思ったんだから、それでいいじゃない。」という答えが返ってきました。
その一言が私の中のモヤモヤしたものを晴らしてくださいました。
そのお檀家さんは、数ある感謝の対象のうちの一人として、私に率直に思いを表現してくれたに過ぎなかったのです。
私は「ありがたい」と声をかけられるうちに、心のどこかで偉くなった気がしていたのかもしれません。その「ありがたい」の言葉が自分だけに向けられているものと思い込んでいたのかもしれません。誰に向けての「ありがたい」なのかということに固執して、思いを素直に受け取れなくなっていたようです。
結局、どちらがありがたいかではなく、互いに感謝の気持ちを素直に表現し、互いに感謝の気持ちを素直に受け止める。その飾りのない言葉や行いが、互いの心を豊かにするのではないでしょうか。
「ありがとう」という言葉、素直に表現し、素直に受け止められていますか?偏見や執着によって当たり前のことを見失わない、素直な心を大事にしましょう。
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