曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

無言の坐禅に教えられたこと []

愛知 恵林寺 関口興顕 師 

12月8日にお釈迦様がお悟りを開かれたことに因んで、修行道場では12月1日から8日の未明までひたすら坐禅を行います。私はお寺で5日間ですが同じことをしています。朝4時から夜9時まで3度の食事の時間を除き坐禅の日々です。コロナ禍では1人でしたが、参禅者を募ることを再開しました。といいましても多くて4人程度の参加者です。
ここでの坐禅は無言摂心といい、一言も言葉を発しない坐禅です。
私は迎える立場として最初は皆が不都合なく坐禅しているか、私自身心乱れていないか、思いが巡り集中できませんでした。他人がいることがストレスになるのは日常でよくあることです。
ですがその思いは薄くなり、他人がいるという事実は負担とならなくなります。他人を思うことで形作られた整った坐禅だけが残ります。自分の坐禅を続け、他人の坐禅を邪魔しない。それでいてお互い坐禅に良い影響を与えるストレスのない時間です。無言によりお互いがお互いを尊重し、みなが自身の命を生きる時間と空間が生まれます。
思えば1人での坐禅は集中できませんでした。誰も見ていないという甘えなのか、誰にも迷惑かけていないという驕りなのでしょうか。
ですが今はお互い気を使いながら言葉で確かめることもなく自然と、やがて住職と参禅者、自分と他人という区別はなくなり、1つの空間に対立のない調和が生まれています。
私達は誰もたった1人のかけがえのない存在ですが、1人だけで生きている訳ではありません。人々との関係の中で生きています。生かし生かされているのです。それは他人と自分を比較し対立させる社会では気づきにくいものです。心を落ち着かせ言葉も用いず、自分を見つめる時、感じ取ることができます。ああ私は生きている。生かされている。生きているとはなんとは素晴らしいんだと。
坐禅は最後一言言葉を交わし終わりとなります。「ありがとうございました」と

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