最近、それぞれが自分の食べたい物を食べたい時に食べる「個食」が増えたと、言われています。かつては、どこの家庭でも、家族がテーブルを囲み、一緒に同じ物を食べる。食事の前には、手を合わせて「いただきます」と言う感謝の姿がありました。
私たち和尚の多くは「僧堂」という、修行道場に行きます。そこで大切になるのが「大衆一如」ということです。それぞれに年令や経験、考え方も違う者が一か所に集まって来ますので、まず、自分の持っている「我」を捨てて、共に修行をしてゆく覚悟を決める、「大衆一如」ということが大切になるのです。
朝、振鈴を聞いて起床し、坐禅、読経、食事、回廊掃除と行事が続きます。僧堂では、その一つ一つに、「次は何々をやります」と言葉では言いません。沢山の鳴らし物があり、その鳴らし方によって皆、同じ行動をする事が出来ます。
広い僧堂ですから、それぞれ一つの鳴らし物を一人の修行僧が担当します。坐禅の始まりの鐘が鳴り、それを聞いて時間を知らせる太鼓や鐘が鳴ります。鳴り終わりを聞いて、今度は、大梵鐘が打ち出されます。すべての鳴らし物は、皆、つながっています。もしも、そのうちの誰か一人でも鳴らすことを忘れたり、間違えたりすると、次につながって行きません。それぞれの者が、その日に戴いた役をきちんと勤めることによって、僧堂の行事がうまく回ってゆくのです。それぞれに頂いた役は、違っていても、すべてのものは、皆、つながっている。大衆一如の実践をしているのです。
私たちの生活の中でも、「大衆一如」は大切なことだと思いませんか。
手を合わせることを「合掌」と言います。生かされて、生かして、共に生きる。心を一つにして行く事が合掌の姿です。この合掌の姿を一日一日伝えてゆくことが、「大衆一如」の実践行となるのです。
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