「ありのままの姿、ありのままの自分」とは、どのようなものでしょうか?
私も言葉を聞いて何か思い浮かんだ方もいるかもしれません。「ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの」という昨年話題になった歌詞を思い出した方も多いのではありませんか?
曹洞宗における「ありのままの姿、ありのままの自分」とは、「只管打坐」にあるのではないでしょうか。只管とは「ひたすら」打坐とは「坐禅に打ち込むこと」です。つまり只管打坐とは、ひたすらに坐禅に打ち込むことなのです。何も考えず、ただ坐禅する。その姿こそが仏のままであるというものです。「ありのままの姿」が坐禅となり、「ありのままの自分」が仏の姿となる、まさしく只管に打坐している姿です。
皆さんはお坊さんが坐禅している姿を見たとき、「修行しているな」「頑張っているな」と、外見を見て感心しているかもしれません。しかし、それよりも大切なことは、その坐禅の姿に仏を感じ取る、ありのままのこころなのです。そして、もっとも重要なことは、皆様も実際に坐禅してみることです。無心になって下さい。坐禅に何かを求めず、実践して下さい。その姿こそが仏となり、ありのままの姿、ありのままの自分になれます。
私たちが毎日生活していくには、行儀を良くしたり、世間体を気にしたり、仕事で業績を上げたりする必要があることもあります。とにかく外面ばかり評価されると、外面にとらわれ、、気疲れすることが多いものです。外面も大切ですが、内面を伴わないと外面も生きてはきません。そこで内面を磨くために坐禅してみてはいかがでしょうか?姿勢を正し、呼吸を整え、ひたすら坐禅に打ち込むことが「ありのままの姿」となり、「ありのままの自分」を見つけるでしょう。その中できっと仏を見いだすことが出来ます。
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