曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

信仰は斯く在る可きもの乎 [1804 平成27年3月2日〜3月8日]

三重県 祐福寺 住職 北知秀 老師

こんな話があります。

あるところに両親を亡くした小さな女の子がいました。
彼女はとても信心深い夫婦に大切に育てられました。
彼女もまた日々の祈りのうちに幸せに暮らしていました。
ところが、あるとき彼女はその教えを捨てることを決心します。
涙ながらに彼女はこう言います。
「墓地のかたすみに、眠っていらっしゃる御両親は、御教えも御存知なし、
きっと今頃は地獄に、お堕ちになっていらっしゃいましょう。
それを今わたし一人、天国の門にはいったのではどうしても申し訳がありません。
わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう」

いかがでしょう。
これは芥川龍之介の『おぎん』という小品の一節です。
私はこの物語を読むたびに、こんなことを考えます。

およそ「自分」のことを愛おしく思わない人はいないでしょう。
また「自分のもの」に愛着を持たない人もいないでしょう。
誰もが「自分」の信じるものを大事にし、「自分」の愛する人を大切にするものであり、
これはとても自然なことのように思います。

しかし、どういうわけか、私などが妙に惹かれるのは
「他者」のために「自分」にとって大切なものを捨てた、彼女の姿ばかりです。

果たして彼女のように「自分」にとって大切なもの
あるいは、もっと端的に言うなら「自分自身」を捨ててでも
なお「他者」に寄り添うことなど出来るものなのでしょうか

私はいま、信仰の行き着く先というのは
「自分」を捨てて「他者」に寄り添うことであり
彼女の意思と何ら異なるものではないと考えています。
それは見果てぬ夢にすぎないのかも知れません。
しかし、私には、彼女に憧れを抱くことが出来て
初めて信仰の道に立てるような気がしてならないのです。

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