曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

なぜ母親は観音様と言われるのか []

岐阜 円頂寺 住職 市岡宜展 老師

大型連休が終わりました。楽しい家族旅行、観光旅行をされた方も多くいらっしゃると思います。
さて、観光の”観”、その”観る”ということに目を向けて下さい。
観は観世音菩薩の観でございます”
音は聞くべきであるのに「音を観ずる」というのです。一体どういうことでしょう?
観音様は「若し無量の百千万億の衆生があり、様々に苦しみ悩むとき、観音様のことを念じ信ずれば観音様は即時にその声を観じて衆生を救わんとする」
つまり救いを求める者の求めに応じて、自らありとあらゆる姿にその身を変えて、お救いの手を差し伸べてくださると「観音経」に説かれ、お慈悲の菩薩さまとして深く信仰されております。           
その観が重要な意味を持っていることがわかります。
”観”は辞書には「明らかに見ること」となっております。ただなんとなく見るのではなく、物事をより積極的に受け取って、音や声、言葉、そして目に映る物、耳に聞こえるもののその奥に何があるのか言葉や音声になる前の心は何であるのかよく見てみること、感じ取ること、それが「観」なのです。

赤ちゃんが泣く。
言葉を利用して意思や要求の伝達も知らぬ赤ちゃんは意思表示、感情表現としてことあるごとに泣きます。
その声によってお母さんは空腹なのか、暑いのか寒いのか、また、どこかがかゆいのかおむつの汚れはないか?たちどころにが見えるではありませんか。
それが”観”の極意なのです。
又、病や傷を癒すことを「手当て」ということがありますが、子の額にまさに手をあてただけで子の病状が分る。痛がる手足をさするだけで痛みが遠くなるような気がする。
まさに手が目であり、心が手になっている。
他人には赤ちゃんの声は一様に聞こえても
母は我が子の泣き声ひとつで目に見えないものが良く見え、声なき声が聞こえるのです。そして優しく手を差し伸べてくれる
この優しい心こそ慈悲心、衆生を思うほとけのこころのそのものなのであります。
お母さん方の愛情には遠く及びませんが、私たちの回りに、目に映る物事にこんな観のまなざし、優しいまなざしすこしでもを注いでいきたいものです。

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