曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

猫の施し []

岐阜 正林寺 住職 荒田章観 老師

 「施す」とは一体どういうことなのだろう。それはきっと誰かを助けることであり、自分の持っているものを分け与えることではないだろうか。ところが、「自分は分け与えられるものは何もない」そう考えるなかには人もいるかもしれない。しかし、それは誤りである。私たちは何がなくとも相手に施すことができるのである。
 今、私の住んでいるお寺では一匹の猫を飼っている。私の師匠がいつの間にか、どこからともなく拾ってきた猫である。拾われてきたときには生後一週間ほどの歩くこともまだままならない仔猫であり、私の姿を見ては怯え、威嚇を繰り返していた。が、今では我が物顔でそこら辺を走り回るお立派な猫様である。
ある日、猫がすり寄ってきてニャーと鳴く。さて、エサが欲しいのかと思って皿を覗いてみればまだ残っている。それならいったい何がお望みかと顔を覗いてみたら、ちょっと不満そうな表情をしている。どうも要望に応えられない私に少々ご立腹のようだ。ならば、いっそ動くに任せてみるかと地面に置けば、ついて来いとばかりに振り返りながら歩いていく。いったい何事かと思って後を追ってもどこか目的地があるような足取りではない。結局散歩のお誘いのようであった。気ままな猫らしいといえばそうである。だからといって苛立ったかといえばそうではない。ついて来ているか振り返りながら歩く猫の表情はいじらしいものだし、散歩自体も十分気分転換になった。
猫はきっと施しているつもりなどその毛の一本ほども考えていないのだろう。ただいつも通り、その愛嬌のある顔で私に鳴きかけてきただけなのだ。しかし、私はそこにとてもいい気分を施してもらった。猫は持っているから施したのではない。そして、「施す」とは「しなければいけない」ではなく「いつの間にかしていた」それで十分ではないだろうか。

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