曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

邂逅について []

愛知 地蔵寺 住職 村上俊孝 老師

邂逅と言う言葉が当用漢字から消されて久しい。淋しい限りと思うのは、私一人ではないと思います。現在の学生が携帯している簡易な国語辞典には、「偶然にであうこと」と解していますが、厳密な意味で人生に「偶然」はあり得ない。世の中はすべて必然の「かいこう」の連続であります。邂逅の底に秘められている出合いの糸のつながりが。私たちには見えていないだけと思います。
 人生は、すべてかいこう〜出合いと言えましょう。合には「会・逢・遭・遇」の同意語がありますが、それは、同音の「愛」にも通じます。愛のない出あいはかいこうではありません。
愛によって、はじめてかいこうが邂逅となります。出合いによって心を伝えあうことが出来るところに、生きる証もあると存じます。
詩人、坂村真民氏の、「子を抱いていると、行く末のことが案じられる。よい人とめぐりあってくれと、おのずから涙がにじんでくる。の詩がございます。私共の一生は限られた時間ですが、その間にどれだけの人と、どれだけ心が深く触れ合えたかで、生きがいが決まると思います。
人間とは、人のあいだと書きますね。あいだはあうことに他なりません。私たちの一生は、誰かとの触れ合いで成立しますが、誰かを傷つけ、迷惑をかけることなしに生き死には出来ません。それ故によき教えに巡りあわねばなりません。よさ友に出合わなくてはなりません。指呼の間近さで春が到来します。新たな出合いに期待せずにはいられない。

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