私が住職をさせて頂いているお寺には、掲示板があります。そこにはその時々で感じた事や、考えていることを一言のせています。今は「敬意と思いやりをどちらかが忘れると争いが起る お互いに敬意と思いやりを持つと和が生まれる」と掲載してあります。
この敬意や思いやりを考えたとき、私は曹洞宗の代表的な経典である修證義(しゅしょうぎ) 第四章 発願利生(ほつがんりしょう)の中に記されています愛語(あいご)という教えを思いながら書きました。「愛語というは、衆生 (しゅじょう)を見るに、まず慈愛(じあい)の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。」と経文の中では始まっています。愛語というのは、その相手の事をみて、ご両親が 子供を温かく見守る気持ちと同じ気持ちで接し、 声掛けをしましょう。という意味です。
その教えを心の中に持ち生活するためには、私達は多くの人のおかげで生活ができていることを感じ、感謝の気持ちでいることが大切だと思います。 「あなたがいるからこそ今の私がある。」と…。
しかし、私自身常にこの教え通りの接し方ができているのかと問われると、胸をはって「はい」とは言えません。日々の生活の中で、毎日忙しく暮らしていると、中々この通りにすることはできません。自分自身に余裕がなく、感謝の気持ちを忘れてしまいます。
しかし知っているのと知らないのとは大違いです。愛語の教えを知っていれば、その時の接した相手に対し愛語の教え通りに接していなかった時、自分の反省の材料となり、次こそは愛語の教えに沿った自分でいようと目標にもなります。
曹洞宗は誓願の仏教です。完璧な自分でなくていいのです。反省し改め、また誓いを新たにし進んでいくこと、これこそ日々の修行にもつながっていくのではないでしょうか。
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