曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
たのしみ法話
たのしみ法話

全てと共に生きる世界にいるわたし []

愛知 威音院 中村元紀 師 

永平寺をお開きになられた道元禅師様が坐禅について説かれたお経の中に、「所縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ」という一文がございます。
私たちが社会で生きていく中で、ルールや体裁、他者からの評価、比較など、様々な思いに縛られることがよくあります。もちろん、これらは時に必要ですが、そうした思いに縛られ続けると、私たちの心は次第に疲れていきます。
この一文は、善悪や肯定否定など、絶えず巡る思考を一旦休め、何事にも抗わない坐禅の精神を説いています。私が大切にしている道元禅師様のお示しでもあります。
この教えの意味を改めて深く気づかせていただいた出来事がありました。私の預かるお寺では、定期的に坐禅会を行っていますが、最近はお寺の周囲で解体工事やマンション建設が進み、日中は様々な音に溢れています。特に工事の音が大きい日の坐禅会最中に私はこう思ってしまいました。
「静かな場所で坐りたいのに」「うるさい」「せっかく皆さんが坐りに来てくれたのに」
その思いで頭がいっぱいになり、集中できなくなってしまったのです。
坐禅が終わり、申し訳ない気持ちを抱えながら参加者の皆さんとお茶を飲んでいたところ、その日初めて坐禅を体験された女性の方がこのようにおっしゃいました。
「和尚さんが坐禅について『何にも抗わない』とおっしゃっていた意味が、坐ってみて何となく感じられました。最初は色んな音が煩わしかったのですが、坐っていくうちに、時計の音も工事の音も、私の呼吸も、周りの呼吸も、全てが必要な存在としてそこにあるものだと感じました。あらがわず、変えようともせず、身を任せると、全てと繋がる感覚があり、とても心静かな時間を過ごせました。」
その言葉を聞いた瞬間、私は気づかされました。自分自身の煩わしい思いを、周りの状況のせいにしていたことに。そして、所縁にしがみついていたからこそ辛い時間になっていたのだと。
道元禅師様のお示しの尊さを、改めて感じさせていただいた出来事でした。
「抗わない」という先に見えてくるものは、「私の世界ではなく、全てと繋がり共に生きる世界にいる私」なのです
坐禅とは、何もしない、抗わない、全てを認める穏やかな時間です。
わずかな時間でも構いませんので、ぜひ共に坐ってみませんか?

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