20年ほど前、読売新聞に「じいちゃん」というタイトルの詩が掲載されていました。私は今もこの詩を読むと、供養とは何かと考えさせられます。この詩には、小学生の少年が、亡くなった祖父を想う正直な気持ちが綴られています。
「じいちゃんはもう居ない。病院でひっそりと息を引き取った。お母さんは子供のように泣いた。なんだかわからない怖さと、波のようにやってくる悲しさに、僕はじっと耐えていた。じいちゃん、あれから一年が経ちました。じいちゃんの建てた家を見るたび、鉢巻きをして金槌を腰に下げて、地下足袋を履いたじいちゃんがふうっと現れます。」
少年の祖父は大工をしていて、その仕事姿が目に焼き付いている様子が伺えます。そして、削り節にそっくりなカンナ屑を拾って、「ほらかつお節だよ」と、少年をからかったそうです。
「じいちゃん、お盆には家に帰ったのですか?迎え火は見えましたか?線香の煙が、じいちゃんの顔まで上るたび、うちわで扇いだのは僕です。たった一年で、じいちゃんの写真に届くようになったのです。僕は忘れません。好きですじいちゃん。今でも。」という詩です。
今でも祖父が、生きているかのように接する少年の想いが伝わってきます。
この詩を読むと、供養というのは亡くなった方を思い出すこと、つまり「忘れない」ということだと思えます。いつまでもその姿を忘れない、してくれたことを忘れない、好きという気持ちを忘れない、ということです。忘れずにいることは、その人が今でも生きているということに繋がります。
逆に忘れてしまったら、その人が本当にこの世から消え去ってしまうことになります。存在しなかったことになる、と言ってもいいと思います。
供養の仕方には様々な方法がありますが、この「忘れない」という気持ちが、供養の根本だとこの詩を読むと思います。
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