感情的になり言葉が乱れてしまう事は誰しもあることだと思います。
誰かを傷つける言葉を口にしてしまった時、それは同時に、自分も傷つけてしまいます。
私が大本山に安居して、つまり修行をはじめてまもない頃の出来事です。この生活ではまず所作の一つ一つから厳しく御指導を頂きます。それまでと何もかも違う生活の中で、与えられたお役目をきっちりこなす事も難しく、心の余裕がなくなり自分や誰かの失敗に対して厳しい言葉を口にしてしまう事がありました。しかしそうした言葉を口にしていると余計に、自分や他者の悪いところばかりが目につきイヤになってしまいます。
そうしたある日のこと、私がお役目の中で大事な仏具を落として割ってしまうということがありました。それは陶器で出来たものでしたから、破片が飛び散り粉々になっています。大変な失敗ですから、その時も私は自分を責めるような言葉を口にし、鬱蒼とした気持ちで、先輩和尚さんに事の顛末を報告しに行きました。
厳しい言葉を頂くだろうと覚悟しておりましたが、しかし、その時に先輩和尚さんから頂いたのは失敗を責める言葉や、憤りや諦めの言葉でなく、『大丈夫か、怪我はないか』という慈しみの言葉でした。これは衝撃でした。先輩和尚さんだって気が気でなかったはずなのに。
この言葉を頂いた時、それまでの重く沈んだ心がふと軽くなる様な気が致しました。
四つの菩薩行の中に『愛語』というものがあります。愛語は修証義というお経の中で『まず、慈愛の心をおこして、あたたかく、思いやりの言葉をかける事』そして、『愛語はどんなに困難な状況でもそれらを一変する力があることを知らねばなりません』と説かれています。
今思えば先輩にかけて頂いたこの言葉は愛語の実践に他ならなかったと感じております。
それから自分も、感情的な激しい言葉よりもいたわりの言葉を口にするよう心がけて参りました。そうすると不思議と、他者のこともあれほど嫌になっていた自分のことも少しずつ前向きに、捉えることができる様になりました。
それでも恥ずかしながら、不意に感情的な言葉を使いそうになってしまうことはあります。例えば、自身の子供が悪戯をしてしまった時などはつい、感情的になってしまいそうになります。しかしながら、愛語に力があるということはその逆も然りだなということを、忘れてはならないと、日々奮闘しております。
言葉には力があります。言葉一つで自身でも他者でも心は変化していきます。
『向かいて愛語を聴くは面を喜ばしめ心を楽しくす。向かわずして愛語を聴くは肝に命じ魂に命ず』
どんな時でもまず、慈しみを持って言葉を紡いでいく事を実践していきたいものですね。
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