曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

南無釈迦牟尼仏 []

三重 南泉寺 山田量大 師

『草の庵(いお)に 寝ても醒めても 申すこと 南無釈迦牟尼仏 憐れみ給え』

道元禅師和歌集にある詩です。
『草の庵(いお)』というのはワラやカヤで屋根をふいた質素な家のことを言いますが、ここでは仏道修行と衣食住に欠かせない最小限のものだけがある様子を表した表現であるかと思います。
『寝ても醒(さ)めても』は「起きている時も、寝ている時でさえ」というのが直訳かと思います。四六時中、どんな時でもということでしょうか。
『あわれみたまえ』は釈尊の「憐れみ」、つまり慈愛を切に請い願う、念ずる姿を表しているのではないでしょうか。
 
寝ても醒めても、何か一心に請い願う姿というと、私はいつもあるお檀家さんの事を思い出します。こちらでは仮にAさんといたしましょう。

Aさんは旦那さんの3回忌でお寺を訪れていました。旦那さんが亡くなるまで仏壇やお墓の手入れなどはほとんどしたことがないという方だったのですが、旦那さんが亡くなられた後は毎日一生懸命お世話をされて、お寺にもよくお参りに来られるようになった、という方です。
平たい言い方をしてしまうと、Aさんは旦那さんの事が大好きだったんです。
私は年忌等でお焼香を求める際、必ずお話させていただくことがあります。それは、「お香を頭の前に持ってくるお焼香のしかたを念香と言います。その際、皆さんにしていただきたいことがあります。亡くなられた方が、ニコニコと微笑んでいる姿をイメージして、そのイメージがちゃんとお香に移ったな、と思ってから、それを焚いてあげてください。」というものです。ですが、その日はなんの気なしにこう付け加えました。

「Aさん、御仏壇に向かって今日はこんな事があったよ、って旦那さんにお話しする事あるでしょ?でも、なかなか旦那さんの声を聞く事ってないでしょ?でもね、今日は絶対言ってますよ。『来てくれておおきによ。嬉しいよ。ありがとな』って。だからその声を聞いてあげてください。」

そして舎利礼文が始まり、Aさんがお焼香に行かれたのですが、お香を頭の前に持っていったと思ったら、3分ぐらいずっとそのままなんです。一人で舎利礼文を読みながら、大丈夫かな、と心配になってきた頃にそのお香を炉にくべられて、自席に戻っていかれました。
法要が終わってから、Aさんに「ずいぶん熱心に念香をされてましたね」と話すと、Aさんはゆっくりと、その理由を教えてくれました。「和尚さん、私ね、あの人の声を久しぶりに聞いた。だからね、この手を離せなかった。」私はその言葉を聞いて、このAさんの姿というものは、道元禅師様が御釈迦様に対して寝ても醒めても想い、御慕い続けた姿、切なる願いと同じなのではないか、と感じました。
私もAさんがそうしたように、『南無釈迦牟尼仏』とお唱えし、手を合わせていけるよう、日々精進していきたいと思います。

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