私たち曹洞宗のお経には『修証義』というお経があります。
その一節に、
‘設い百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生をも度取すべきなり’とあります。
これは、たとえ、百歳の月日を感覚的な事柄にとらわれて生きてきたとしても、そのうちの一日でも、真剣に仏道修行したのなら、その一生を取り戻すだけではなく、次の百歳の生までも、救うことができるものである。こう読み解きます。
日々一日、私たちが生きていくしがらみの中でたとえ僅かな時間であっても仏道の修行を
行う。それは、お経の一節を読み聞く、こうしたひと時でも心のすくいとなり、修行となります。
では、もう一節をお聴きください
‘仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり。是れ一切衆生を証入せしめんが為なり。人天誰か入らざらん。彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ。又滅罪清浄ならしむるなり。’
こちらは、仏や祖師方は、衆生を憐れんで仏道への慈悲の門を開いてくださいました。これは生きとし生けるものをめざめさせて仏道にむかえるためです。迷いの六道にある者でも、入れない者は誰もいない。現世で報いを受ける、次の世で、さらに次以降の世でも悪業の報いは必ず受けなくてはならないが、懺悔するならば、重い罰を受けなくてはならない悪業も、軽くし、また罪を滅して、清浄になることができる。こう読み解きます。
このように、仏様や祖師方が示された慈門がある中で私たちは生きています。
僅かな時間でも仏様の御心にふれるよう真摯に仏道に心を寄せて、各自ができる修行をみつけてゆく一つとして心にとめてくだされば幸いです。
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