皆様は「作務」という言葉をご存じでしょうか。「作務」とは「務め(つとめ)を作す(なす)」の意味で、修行道場における、清掃や炊事、農作業など、すべての労働を示す言葉です。多くの方は修業とは、御経を読んだり、座禅をしたり、時には滝に打たれたりといったものをイメージされると思います。しかしながら禅宗ではこの「作務」をすごく大切にしています。もちろん読経や座禅も大切な修業の一部ですが、むしろ何気ない日々の生活を怠惰に過ごさないということが修行そのものであると位置づけています。
私が住職を務めているお寺では『トチノキ』があります。生り年とそうでない年はありますが、秋になるとたくさんの栃の実が落ちます。毎日二回ほど落ちた栃の実を拾い、殻を掃き掃除します。ただそれでも掃除している最中から栃の実が落ちてきて、掃除を終えたころには元通りの状態に戻っていることもあります。
先日も子供たちと栃の実を掃除していました。実際は私が掃除をして子供は栃の実を集めたり投げたりして遊んでいるというような状況でしたが、ある程度やるとまた落ちてくるそんな状況に嫌気がさしたのでしょう、子供が「全然きれいにならないからやめる」と言いました。私が「もう少し頑張ろうよ」と言うと、子供はしぶしぶ付き合ってくれ、なんとか多少は見栄えが良くなったところで辞めました。
しかしながら箒等を片付けて家に戻ろうとすると、かなり強い風が吹き、またたくさんの栃の実が落ちてきました。それを見て子供が「頑張ったのに無駄になっちゃったね。」と言いました。「あなたは半分遊んでいたでしょ」と思ったのは言わなかったのですが、それと同時に修行時代のある老師の言葉を思い出しました。
私が修行をしていたお寺では、秋になるとたくさんの落ち葉が落ち、毎日のように掃き掃除をしていました。それこそ毎日毎日掃いても掃いても次の日には元通りになることに修行の身ながら嫌気がさしていました。そして恥ずかしながらそんな思いをある老師に話しました。その老師は近くのお寺で住職を務めながら修行道場に通われて修行僧に色々なことを教えてくださる役寮という立場の方です。その方は私の話を聞き、「今君がしていることをただの掃き掃除としてではなくて作務として捉えてください。色々な思いが出てくるでしょうがその気持ちと向き合うことも修行の一つです。君は今、正に修行していますね。」と嬉しそうにこう言いました。
私はその言葉を聞き、分かったような分からなかったようななんとも言えない気持ちになりましたが、その後は掃き掃除だけでなく日々の様々なことを作務として捉えて、向かうように努めました。今でもその言葉を完全に実践できているかは分かりませんが、何事も自分の精進の為と思い向かうように心がけています。皆様も日々の生活や仕事などなかなか気持ちが向かないとき、億劫になることなどあると思います。そんな時はその事柄を作務として、修行の一環として捉えて向かってみてはどうでしょうか。きっと、多少なりとも捉え方を変えることでより意味のある日々の生活になるかと思います。
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