「回向」回し手向ける。向かわせる。と書きます。あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、ご法事など各種読経の後にお坊さんが一言加えているのを聞いたことがあるでしょう。
このお勤めは誰の為に、何の為に行っているのかを申し上げ仏様のご加護を乞うものであります。この回向、多くの場合は単に現場限りの祈りに留まらず、このご利益がより多くの人々に届くようにとの思いが込められているものです。
それこそが回し手向けるという「回向」本来の意味であるわけです。
さて、皆さんが電車の中でお年寄りに席を譲ったとします。
お年寄りは先に電車を降りる。「お席を譲っていただきありがとうございました。どうぞお座りください」と席を戻されます。もちろん、その時の状況によって様々ではありますが、再び自分がその席に座ったとします。
その場合、席を譲るという「善行」は二人の間で完結をしてしまいます。そこに問題があるとは申しませんが、今回は「回向」のお話でありますので、別の見方をご紹介いたします。
席を譲るという「善行」を意味あるものとするために「回向」をするわけです。どういう事かと申しますと、お年寄りが電車を降りた際に再び自分が座るのではなくて、別の人に座って頂く。そして、また別の人が座る。と言うように「善行」を人から人へと繋いでいくのです。そうすることによって、自分が行った「善行」がより多くの方へと回し手向けられる。そして、いつしか自分の所にも帰ってくるかもしれない。
それこそが「ご利益」と呼ばれるものです。
こうして、水面に落ちた小石が大きな波紋を描くように小さな行いが、限りなく広がっていく可能性を秘めているということを、知っておくのか知らずにおくのかでは大きな違いであります。
これはまた、逆の意味合いでも同じこと。小さな悪行が大きな罪へともなりうるということです。
道端に落ちているごみを拾う。そんな小さな行いが、もしかしたら多くの悩める人の心を救っいるのかもしれません。
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