坐禅会のあとに仏典を読んでいます。僧侶ふたりと参禅者の小さな勉強会です。
私が僧侶になって最初に師匠から渡された本を勉強会のテキストにしています。参禅者に本文を読んでもらい、現代語訳したのち、書いてあったことをどのように自分に引き付けたか意見を発表してもらいます。
参禅者の現代語訳を聞いていて気が付いたことがありました。
私たちが日頃使っている言葉の意味で仏典を解釈すると本文を読み誤るということです。
表された漢字は同じですが日常語として使う場合と仏教用語として使う場合で意味が全く異なるからです。
たとえば「無所得」という言葉が本文に出てきたとします。日頃はどのような意味で使っているでしょう。
各個人が働いて得た金銭的報酬を所得と言い、収入がないことを無所得と言っていませんか。
しかし、仏教用語としての無所得は、見返りを求めない心のことをいいます。ですから無所得は目指すべきものです。
無所得を目指すのですが、なかなか無所得にはなれません。私たちは、努力したならその結果がほしくなり、人のお役に立ったなら「ありがとう」のひと言がほしくなります。しかし、そのこだわりが返って新たな苦しみを引き起こします。
期待した結果が得られなくても、努力した事実は消えません。「ありがとう」のひと言がなくても本当に人のお役に立ったなら、それでよいではありませんか。
努力したこと自体を喜べる人になればよい。
私の師匠はすでに亡くなってしまいましたが、晩年まで何度もつぎのように言いました。
「仏典を読むということは、日頃自分が正しいと思っていることが実は間違っていたと気付くこと。人はいったん掴んだものを手放すことは難しい。だからこそ仏典を読むことを疎かにしてはいけないよ」と何度も私に伝えました。
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