わが宗門は、つくづく「月の宗教」だと思います。仏教、とくに禅宗において月はその宗教性の象徴であり、古の禅僧の問答や、それに由来する禅語も月だらけ。大本山總持寺をお開きになった瑩山禅師が弟子の峨山禅師に「月は二つある」ということを問うた「両箇の月」と呼ばれるエピソードがありますが、月をテーマにした問答は数あれど、太陽をテーマにした問答は見つけることすら困難です。「人の、さとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず」という一節に代表されるように、道元禅師が記した正法眼蔵は月にまつわる記述であふれ、とくに月についてだけ書かれた「都機の巻」まであります。さらに教科書などにも掲載される禅師の最も有名な肖像画は、観月、つまり月見をしている姿を写したものなのです。このようにわが宗門は圧倒的に月に傾倒していると言えるでしょう。もっとも、日本や中国という国自体がそうなのかもしれません。漢詩や短歌で詠まれるのも月ばかりです。逆に西洋では月は魔術的なもの、怪しい光で人を狂わせる存在です。月に由来するルナティックという単語は狂気的という意味ですし、西洋の怪物は月の光で変身します。この差は端的に東西の宗教観を現しているように思います。太陽の強い光は、すべてを白日のもとに明らかにする絶対的な神を連想させ、夜はその力が及ばない時間であり、したがって月は魔性の存在なのです。(余談ですが、編集者の松岡正剛氏は『ルナティックス』という本の中で「太陽は見るからに野暮でないか!」と言い、月への偏愛を語っています)一方東洋では、月は私たちを冷静に照らす存在です。太陽のような熱狂はなく、冷たく淡々としています。絶対的な太陽と比べると、ともすると曖昧に見えるかもしれません。日本人は「自分は無宗教である」と答える率が世界でも突出して多いそうですが、これは単に宗教を忌み嫌っているからではなく、宗教的価値観が生活や社会と一体になっており、宗教単体として分けられないからではないでしょうか。そうでなければ、無宗教といいつつ神社に初詣に行ったりお寺で葬儀を行ったりはしないでしょう。夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したそうですが、この「はっきりしなささ」は月の宗教に通じているのかもしれません。
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