曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵佛教の巻より

 

 「諸仏の道現成、これ仏教なり。これ仏祖の仏祖のためにするゆえに、教の教のために正伝するなり、これ転法輪なり。この法輪の眼埵裏に諸仏祖を現成せしめ、諸仏祖の般涅槃せしむ。その諸仏祖、かならず一塵の出現あり、一塵の涅槃あり、尽界の出現あり、尽界の涅槃あり。・・・仏および教は大小の量にあらず、善悪無記等の性にあらず、自教教他のためにあらず」
 道元さまの時代に「仏道」とか「仏法」という言葉は使われていましたが「仏教」という言葉はほとんど使われていませんでした。仏教という言葉がよく使われるようになったのは明治以後のことであり、西洋よりキリスト教等の他の宗教が日本に入って来るようになり、それ等の宗教と区別する意味で、お釈迦様の教えを総じて仏教と言ったのであります。しかし道元さまが使われたこの「仏教」という言葉は他宗教と区別する意味での「仏教」ということではありません。道元さまは弟子たちにこの「仏教」という言葉を説く必要性があったのであります。そして「仏道」「仏法」「仏教」の三つが総合してこそ意味があるのであります。やや理屈っぽくなりましたが、この「仏道」と「仏法」という言葉についてまず説明させていただきます。
 「仏道」はお釈迦さまがお説きになった悟りに到るための最上の実践規範、悟りへの最上の修行のあり方を意味しております。「仏法」は仏道修行の行われる舞台としての世界を意味しています。しかしこれらは「仏教」という言葉を説明するために区別して説明させていただいたのでありまして、一般的には三者の区別をいたしません。
 さて道元さまは仏教を「諸仏の道現成、これ仏教なり」と明快に説明されました。この意味はお釈迦さまはじめ諸仏諸祖のお説きになった言葉(真理)のあるがままの現れであります。つまり仏教とは諸仏諸祖がお説きになった仏道や仏法の理論的、哲学的側面を強調して言われた言葉であります。それは哲学的論議(三乗)や経典(十二分教)などの文字による教えも軽視すべきでないということを道元さまはこの巻で述べられたのであります。
 さて「仏祖の仏祖のためにする」とか「教の教のために・・」ということは諸仏諸祖の説かれた教えは「真理」でありもともと存在するものでありますので、相手を意識して説くことによって価値が生まれるというものではないということであります。そしてそれは悟りを開かれた方が自身の為に説くのであり、仏教がそれ自身真理として正しく伝えられるのであります。仏が仏に教えを伝えるということは真理を悟った者にのみ伝えられるということであります。それでお釈迦さまより歴代の祖師方に嫡々相承して正しく伝えられてきたのであります。このことは仏の教が凡夫つまりまだ悟りに到っていない人に説かれなかったということではありません。このことにつきまして道元さまは正法眼蔵随聞記という教えの中に「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成りしなり」という段があります。未だ悟りの境地に到っていない私どもも、常に求めて悟りを得ようと願い修行を重ねるならば、悟りの境地に到るということであります。道元さまが中国天童山如浄禅師より正しい仏法を伝えられたのも嫡々相承であり、仏道が仏道に伝え仏法が仏法に伝え仏教が仏教に伝えたのであります。つまり如浄さまによって道元さまが「真理」「悟り」への目が開かれたのであります。
 さて道元さまがこの巻で説かれようとされたことは仏教の理論的側面を否定して実践のみを重視する偏った考えを戒められ、理論的側面をも軽視すべきではないと説かれたのであります。ただし修証一如という言葉がありますように実践なくして悟りは無いのであり、実践と理論とが両者あいまっていなければなりません。やや難解な巻ではありましたが「諸仏の道現成、これ仏教なり」であります。

(合掌)

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