曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵現成公案の巻より

 

「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず、一方を証するときは一方はくらし。」
 この巻は修証一等ということを説かれた巻であり、次のような大意になります。
 「身心を挙して」とは自己の身も心も挙げて、全人格でもってということであり、心に思うことを同時に身体に顕わすことであります。全人格でもって対象たるものを見、全人格でもって対象たる音を聴き取るとき、つまり全身全霊でもって修行するときは、鏡にものの影が映るように、又は水に月が映るように修するものと、そのものの眼に映る証の世界は二つのものが同時に見えるわけではなく、一方を証するときは一方は暗しであります。
 さて、修と証とは一等であるということでありますから、修するときはそれが証であり、別に証があるわけではない。つまり修するときには修の中に証が脱落し、証の時は証の中に修が現成するのであります。例えば坐禅の時にいたしましても、年忌法要の時にいたしましても、足の痛いのを我慢し、口をへの字にして坐ることが大切なのではなく、重要なことは自分の体の動きと、心のはたらきとが完全に一体化して、坐禅をし経を読む、これが「身心を挙して」ということであります。別の言葉で申せば「成りきる」ということであります。坐禅の時には坐禅に成りきり、食事の時には食事に成りきり、茶を飲むときには茶になりきる。「茶におうては茶を喫し、飯におうては飯を喫す」ということであります。「したしく会取する」ということは理解するということであります。「取」とは強調の意味を有し、しっかりと理解するということであります。足の痛さに気を取られ、上の空で坐禅をし、上の空で経を読むのであれば、何の坐禅か・何の読経かということになってしまいます。私はお年忌などでお檀家の皆さんと一緒に大きな声で修証義などのお経をお唱えいたします。そのような時には前もって皆さんに、「足の痛くなった方はその時は遠慮なく楽な姿勢になって下さい。ただし、今日は・・さんの年回供養のためのお勤めですので、お経は真剣にお唱えください。」といいますね。身心を挙して心をこめてお経を読んでいただくことが、亡き方への供養であります。
 「かがみにかげをやどすがごとく」ということは普通に考えれば鏡に映す自己と映し出される映像とが、そっくりそのままであるという意味にもとれますが、それとは逆で、鏡に映し出された自己は真実の自己ではなく、修行もそうであってはならない。また、「水の月のごとくにあらず」とは鏡同様、水は水、月は月で水に映った月は本当の月ではなく、水なら水、月なら月というように、そのもの自体に成りきらねばなりません。
 「一方を証するときは一方はくらし」とは一つのことを果たすときには、二心なく自己と対象が一体化し、そのものに成りきることであります。
 道元さまは現成公案の巻において悟に到るにはどうあるべきかということを言葉によって説かれたのでありますが、本来道元さまの立場からすれば、言葉というものによってそれを如何に説いても、それは身心を挙した実践修行に比すべくもないのであります。身心一如、修証一等こそ道元禅師の宗旨であり、それこそ法位に住することであります。

(合掌)

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