曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵三昧王三昧の巻より

 

「葛然として尽界を超越して、佛祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔党の頂寧を踏翻して、佛祖の堂奥に箇中人なることは、結跏趺坐なり。佛祖の極上極を超越するは、ただこの一法なり。このゆえに、佛祖これをいとなみて、さらに余務あらず。」
 道元さまが坐禅について説かれた教えは、宋より帰朝後間もなく書かれた「普勧坐禅儀」があり、これは立宗の宣言書ともいうべきものでありました。その他に正法眼蔵坐禅儀、永平広録、正法眼蔵弁道話など多くあります。これらは坐禅の作法とその精神を説いたものであります。例えば弁道話では、坐禅の真髄を「もし人一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。・・・このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあずかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられてちかきさとりをあらわす。」と説いておられます。また、坐禅箴の巻きでは坐禅のことを誤った理解をしている人の病を治して正しい道に導くための教えを説いておられます。そこでは「転迷開悟」の立場を否定され「悟上得悟」「本証妙修」の立場に立たれる道元さまは、正しい坐禅箴は中国の宏智正覚禅師の坐禅箴以外には無いと言い切っておられます。道元さまは人間が本来そなえている佛性を自覚し、それを守り育て行く行持であり、それが坐禅であるというのであります。坐禅そのものが悟りの世界であるといわれるのであります。さらに坐禅の巻に
 「薬山大師云 箇の不思量底を思量せよ。僧(問て)曰く 不思量底如何が思量せん。師曰く 非思量。(漢文)」
と薬山禅師の言葉をとりあげ坐禅の時には、いろいろのことが心を過ぎるのでありますが、それにとらわれることなく只坐るのだと説いておられます。つまり坐禅の本旨は対立を離れた一源観でありますから、これを非思量というのであります。これが三昧王三昧の境地であります。これは中国宋代の禅僧萬松行秀禅師が宏智禅師の頌古の提唱たる従容庵録第二則の達磨廓然についてもこの境涯であります。そしてこの三昧王三昧の巻も坐禅の真髄について説かれたものであります。ここに紹介いたしました引用文はこの巻の冒頭の一節であります。現代語訳は
 「すっかりまっしぐらに全ての世界を超越し、脱落して佛祖・釈尊の住んでおられたと同じ境涯、きわめて尊貴なる境涯に住するには、この結跏趺坐をすることである。これは間違った教えを信じる者や悪魔等のともがらを飛び越え、踏み越えて釈尊の奥義に実際に進み住する人となるのであり、この結跏趺坐をする人がそれである。釈尊の説かれた究極の世界を超越するには、只この坐禅以外にはないのである。したがって諸佛諸祖は皆これをもっぱら行っているのである。」
ということであります。この三昧ということは自己の精神の状態のことであり、自律神経における交感神経と副交感神経とが均衡を保たれた状態をいうのであり、精神状態が最も安定した状態にあることであります。そのような状態は日常の生活の中に於いても経験することが出来るのでありますが、その最も安定し易い状態がこの結跏趺坐をすることであります。したがってこれを三昧の中でも最もすぐれた三昧たる「王三昧」というのであります。宏智禅師はこれを「廓然無聖」といい、心に一点の曇りも無い状態であります。しかも道元さまは弁道話の中に於いて「一時なりといふとも、三業に佛印を標し、端坐するとき、遍法界みな佛印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」とも説かれるのであります。この王三昧の巻は道元さまの坐禅に対するお考えを知る最も大切な巻であります。

(合掌)

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