曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵仏向上事の巻より

 

 「いまいふところの佛向上事の道、大師その本祖なり。自余の仏祖は、大師の道を参学しきたり、佛向上事を体得するなり。」「而今の示衆は、佛向上事人となるべしとにあらず、佛向上事人と相見すべしとにあらず、ただしばらく佛向上人ありとしるべきなり。」「ただひとへに佛向上なるゆえに非佛なり。その非佛といふは、脱落佛面目なるゆえにいふ、脱落佛身心なるゆえにいふ。」「いはゆる佛向上事といふは、佛にいたりて、すすみてさらに佛をみるなり。」
 この巻は仁治三年三月二十三日に示衆されました。この巻きにいう「佛向上事」とは、一体どのようなことを意味するのでしょうか。まずここに引用いたしました言葉の意味を解説いたしましょう。
 「いまここにいう(佛を越える)ということは、曹洞宗の祖である洞山悟本大師が最初に云われた言葉である。その他の祖師方は悟本大師の教えを学びにそのもとへ来たり、「佛向上事」ということを体得したのである。」「只今衆に説かれたところは、只今佛を越える人になれというのではなく、佛を越える人に会えというのでもなく、現に佛を越えた人がいるということを知りなさいということである。」「只ひとえに佛を超越しているが故に佛にあらずというのである。その佛にあらずというのは佛の面目を超越しているからそういうのである。佛の身心をのりこえているからそういうのである。」「いわゆる佛を超越するというのは、佛の境地にいたりて、さらに進みで大きな世界から佛を見るのである。」
 ここにいう佛向上事とは、引用文にもありますように洞山悟本大師が最初に言われたことばであります。仏教徒にとりまして向上ということは、悟りに向かって進むことであり、具体的には悟りに向かって修行することであります。しかもここで悟本大師は佛に向かって進むけれども、さらに進んで佛を見ると言われるのであります。悟本大師はすでに佛祖となっておられます。しかしさらに佛祖を越えて行こうとされるのであります。
 佛祖を越えるということは達磨を越え、釈迦を越えることでありますが、悟本大師も道元さまも、その真意はお釈迦様や達磨さまが自己を越えた自己の境涯に遊戯されたその境地をいうのではないでしょうか。それは天地自然、大宇宙の真理、真の悟りの境地を意味するのではないでしょうか。
 ものの考えには垂直思考と水平思考というのがあります。垂直思考的ものの考えに向上ということがあり、目標とするものに向かって一途に向かって進むことであり、これが一般の考えであります。修行についても同様であり、自分の師匠を目標とし、ひたすらそれに近づこうと努力する。そしてそれに到ったならばそれを越えようとする。これが常識的な考えである。しかし、道元さまはそのようには考えられなかったのではないでしょうか。圓還思考というものがあるとするならば、道元さまは、師匠を越えたところに広大無辺なる悟りの境涯が開けており、その境涯はやはり師匠が巡った境涯であり、遊戯した境涯であって、それをわれも巡るのであるということではないでしょうか。神というものがあるとするならば、これは佛向上事の世界であり、大宇宙の真理ということになると思います。神というものが特定な個なるものではなく、広大無辺なる宇宙であり、真理真如であります。これより釈尊は因果の道理を説き起こされるのであります。
「いはゆる佛向上事といふは、佛にいたりて、すすみてさらに佛をみるなり。」
ということであります。

(合掌)

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