曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵現成公案の巻より

 

「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸佛あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」
 この巻は悟りとは何ぞやということについて説かれた巻であります。説かれたのは天福元年(一二三三)宇治の興聖寺においてであります。先に説かれた弁道話の巻に比して、さらに洗練された文章で説かれております。中秋のころといいますから旧暦八月十五日のことであります。
 さて宗教とは自己を問い直すことより始まります。自己とは何ぞや、何のために生きているのか、どのように生きたらよいのかと問い直すことが出発点でなければなりません。それ無くして悟りとは何ぞやと問うのは「長柄を北に向け、越に向かうようなものである」と道元さまは説いておられます。誰しも現実直面する難儀、苦しみから解き放たれようとして、何かに救いを求めるものでありますが、その時深く自己を見つめ直すことが、本当の救いに到る道であります。人間の弱みにつけ込んで、さらに誤った道に引き込んでしまう宗教が現実にはありますが、そのようなものでは、決して苦しみは救われないのであります。
 世界にはいろいろな宗教がありますが我が国の佛教では、お釈迦さまが説かれた悟りの世界を肯定した上で、その時代背景や人々の意識、機根に応じて全ての衆生を救済せんとの誓願から、その悟りへの道を宗祖独自に解釈し、人々に教え広めたのであります。本来日本民族は自己の宗教、宗派が唯一絶対であり、他は邪教なりというような民族ではありません。むしろいずれの宗教をも包含できる融通無碍なる傾向は日本民族の特色とも言えようかと思います。むしろ、それが日本民族の誇るべき文化とも言えるのではないでしょうか。お釈迦様の説かれる悟りの世界とは、あらゆる宗教原理をその中に包含し、それを超越する、全宇宙、普遍の真理、天地自然有情非情に共有できる真理であります。
 ここに引用いたしました一節も悟りについて説かれた一説であり、道元さまの思想的根幹をなす一節でもあります。この一節の大意は次のようになります。
 「天地自然のありのままの姿こそ諸佛が説かれた仏法であると信じ、その説かれる修行法を行じ続けるとき、その眼前には迷悟、生死というようなこの世のありのままの姿が現成する。また、証りの世界は心に映っているからあるのではなく修行によって現れるのである。そこには最早諸佛と衆生、生と滅、修行と証りという対立がなく、それらを超越した世界が現成するのである。このとき豊かな違いに彩られた証の世界が、修行という倹なるものに脱落するのである。ここにいう豊とは証であり、倹とは修行である。もともと修行と証とは異なるものではないのである。このようなわけで証の華は惜しんでいつまでも眺めていてもそれは修行に脱落し、修行の草は世人が好むと好まざるとにかかわらず、そのものが証悟となるのであり、修証は一等なのである。」
 これがこの一節の大意であります。ここにいう悟りの境地とは天地自然のあるがままの道理であり、釈尊成道の消息であります。それに背かない生き様こそ、そのまま仏道修行の大道であります。それを修といい、それがそのまま証の姿であり、証こそ大宇宙の真理であり、修証一如であります。そして証の世界こそ全存在共有の本源ともいうべきものであり、真如であります。

(合掌)

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