曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

普勧坐禅儀より

 

 「原ぬるに夫れ(たずぬるにそれ)道本円通、争でか(いかでか)修証を仮らん、宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。況んや全体はるかに塵埃を出ず、たれか払拭の手段を信ぜん。おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭を用ゆる者ならんや。」
 「坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れすなわち坐禅の要術なり。」
 「いわゆる坐禅とは習禅にはあらず。唯これ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり。」・・原漢文
 普勧坐禅儀は道元さまが中国天童山にて師の如浄禅師より曹洞宗を受け継ぎ、正伝の仏法を受け継ぎ、帰国後京都の建仁寺において坐禅の本当の意味を説かれ、坐禅の重要性を説かれ、坐禅を普く勧め広められようとされた開教第一の教説であります。
 この普勧坐禅儀は永平廣録十巻の内の第八巻にあります。坐禅儀ということは坐禅の仕方ということでありまして、これを僧俗を問わず広く勧められようとされたのであります。それでは何故道元さまはこれを帰国後第一に説かれようとされたのでしょうか。
 当時中国では南宋の時代でありまして、古則公案つまり先輩の禅の言葉や教理を研究し、どちらかといえば理屈によって悟りを得ようとする傾向がありました。それを待悟の禅と言いますが、坐禅も悟りを得る為、悟りへの手段にするという姿勢でありました。これは普通はいたって常識的なことでありますが、道元さまはこのことを頭から否定されたのであります。そして正しい坐禅とは何か、正しい悟りとは何か、正しく生きるとは何かということを、この普勧坐禅儀の中で説かれたのであります。それでまずここに引用致しました一節の意味をお話しいたしましょう。
 「さて仏道というものはもともと本来どうせずとも私たちに円満にそなわっているものでありますから、なにも悟りを得ようとして修行することではありません。あれこれと考えをめぐらして功夫することもありません。宗乗つまり仏の教えというものに身を任せ、それに乗って行けば自在であり、とらわれがなく功夫を費やす必要もありません。また、振り払うべき塵も、払わなければならぬ埃も本来ないのであります。悟りは行住坐臥、日々の生活の中にあるのであり、離れてあるものではありません。それでわざわざ悟りを目的とした坐禅など修行を労することもないのであります。」
 道元さまはこのように有所得つまり思惑を持った坐禅を厳しく否定され、ただ坐る、とらわれを捨ててひたすら坐る、只管打坐をせよと説かれたのであります。道元さまは坐禅の形、儀式を説かれ、つづいて心についても説いておられます。それが「非思量」の一節であります。正しくどっしりと坐り、「非思量」になるのです。坐禅のときにはいろいろなことが次から次へと頭に浮かびます。しかしその思いにとらわれないことが大切であります。「思量」とは思いめぐらすことであります。「非思量」とは思いめぐらすことにとらわれないことであります。
 坐禅をすることによって精神を統一しようとしたり、また無念無想になったり、思惑でもって坐禅をしないことが大切であります。希望、願望、要求、注文と言った「我欲」の心で坐ってはならないのであり、ただ坐る只管打坐を道元さまは説かれたのであります。「不思量底を思量するのであり、不思量底を如何に思量するのかと言えば、それが非思量である。これが坐禅の要術である」と説かれたのであります。
 「いわゆる坐禅とは悟りを得るための難行苦行ではなく、安楽の行であり、安楽の法門である。仏の悟りを究め尽くそうとする坐禅であり、坐禅がそのまま悟りである」
 習禅ということは観練薫習ということであり、精神統一などの思惑を持った坐禅を行うことであります。道元さまはこのような坐禅を否定し、五感により巡り来る一念一念にとらわれず、跡をとどめない、こだわりを離れ、安楽に遊戯することであると説かれたのであります。

(合掌)

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