曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵即心是仏の巻より

 

「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。・・」
「即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。・・」
「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去、現在、未来の諸仏ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」

 ここに紹介いたしました即心是仏の巻の最後の一節「いはゆる・・・・」は私たちが日常お唱えする修証義の最後の言葉でもあります。
 そして仏とは何かということをお説きになった巻であります。仏とは何かということの究尽は仏教者の根本問題であります。
 道元さまは天地法界のあるがままが仏であると説かれました。一木一草全てが仏であり、この天地の道理、大自然の法則がそのまま仏であります。「峰の色 渓の響も 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」とはこの間の消息をあらわされた言葉であります。
 ところで仏さまには三つの徳があります。それは法身、報身、応身の三つであります。仏の心が法身、仏の徳が報身、仏のはたらきが応身であります。しかし、それは三即一であり、一即三であります。天地法界にはこの三徳があります。
 さて、最初の一節の意味は「十方三世、代々の仏さまが例外なく護り、仏道の根本精神として相い伝えてきたものは即心是仏のみである」となります。道元さまはここで三通りの仏さまをお示しになりました。それは三世の諸仏、お釈迦さま、そして即心是仏であります。三世の諸仏とは過去、現在、未来の三世の仏さまであり、時間空間を越えた天地万物のあるがままの姿、全てが仏であるということであります。これは十方三世一切仏とも言いまして、私たちがお経の最後にお唱えする言葉でもあります。そしてそれらの全ての仏さまがお釈迦さまに帰一されるのであります。つまり三世の諸仏のお悟りもお釈迦さまのお悟りも同じであるというのであります。お釈迦さまは具体的な仏さまであり、私たちはお釈迦さまによって仏の何であるかを知り、仏と成る道を学び、仏の尊厳、価値を認めることが出来たのであります。それは理論でも思想でもなく、実際この地球上に現れた事実であります。我々はお釈迦さまの教えにより、その人格を通して、三世十方の諸仏の意味を知り、天地万物が仏そのものであり、悟りそのものであるということを知りました。そこで、曹洞宗では三世十方の諸仏の帰一せるお釈迦さまを中心にし、生きた釈迦牟尼仏を本尊とするのであります。
 しかし、このようにお釈迦さまといい、三世諸仏というとき私たちは、仏さまをどのように考えていたのでしょうか。このことにつきまして道元さまは仏性の巻等で「人間は本来仏性あり」と説かれ、だれしも仏さまに成ることが出来るのだと説いておられます。ここに即心是仏の意味が重みを増すのであります。しかし、道元さまはさらに「即心是仏とは、発心(悟りを求める心を起こすこと)修行(弁道・行持)、菩提(正覚)、涅槃(悟り)せざるは、即心是仏にあらず。」と説かれ、実践の裏付けがなければ即心是仏とは言えないとも説いておられます。発心、修行、菩提、涅槃せる自己が仏であるということであります。修証一等であります。
 即心是仏は即身是仏ともいいます。発心、修行、菩提、涅槃せるわが心そのままが仏の心であり、発心、修行、菩提、涅槃せるわが身そのままが仏の身であるというのであります。つまりそれは「人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、修せざるには現われず、証せざるにはうることなし」であります。絶えざる実践修行なくして悟りなどありません。しかも道元さまは「ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」と示され、無我の三昧を説かれました。つまり悟りを得、仏さまになるには心の底から懺悔し、仏さまにおまかせし、正心正念に三宝に帰依し、戒を守り、一向専心に菩提心を起こし、一瞬たりともたゆまず仏の真心に生きつづけ、仏道修行するのであります。

(合掌)

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