曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵現成公案の巻より2

 

「自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。」
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
 前回につづいて「悟り」という大問題をお話しいたします。この悟りということは言葉ではある程度説明することが出来るとしても、これを身で実践することは容易ではありません。拙衲にとっては生涯のテーマであり、永遠のテーマでもあります。悟ろう悟ろうとしても悟れるものではありません。
 さて、「自己をはこびて」ということは我見我欲、我をはって偏った考えでもってものごとにあたるということであります。自己の外に萬法があると対立的に考えて萬法、つまり悟りを究め尽くそうとするのは迷いであり、萬法を究め尽くせるものではありません。それではものごとの真の姿は把握できないのです。萬法は自己の内の問題であり、自己は萬法の内の一つにすぎません。「萬法を修証する」とは諸法、天地自然の道理、真理つまり「悟り」を実践によって悟ろうとすることであります。我見我欲でやることは、たとえそれがどのようにすばらしい実践であったとしても、自分を毒し、他人を毒して邪悪迷妄なことになるのであります。俺が俺がという間は人間本物ではないのです。
 次に「萬法すすみて自己を修証するは悟りなり」についてでありますが、これは前段の「自己をはこびて」の逆でありまして我執妄想を離れ、対立観念を持たず、萬法と一体になって天地万物の中の自己であるということをわきまえ、天地自然の道理に従って生きるならば、自ずとそれが悟りであるということであります。自己の実践がすべて道理にかなっているならば、悟りが自ずと身に現れるのであり、悟りの体顕であります。天地万物同根として自己が何であるかということの究明であります。
 このことについて次の段「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。」に道元さまは具体的にお説きになりました。仏道というのは仏教というのではありません。単なる仏の教えというのではなく、仏の教えの実践体顕であります。自己をならうというのは、自己とは何であるかの究明であります。しかし究明すると申しましても、それは結局自己を忘れることであり、自己の否定でもあります。教えを信じて自己を捨てることであります。森羅万象の自道取であります。
 仏道修行者にとりましては自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。自我を捨て去ることではなく、自己と他己との対立を捨て去ることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。道元さまのことばに修証一如というのがありますが、曹洞宗では実践の中に悟りがある、実践そのものが悟りの姿であるといわれています。萬法すすみて自己を修証する、正しい実践体験の世界に没入するとき融通無礙の自己が実現し、自己を会得し得るのであります。そのとき「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」であります。身心脱落とは「俺が俺が」という我見我執の凝り固まった固執的概念を捨て、自他を超越することであります。身心一如という体験的世界に没入することであります。
 ここで道元さまは「他己」ということばを使われました。これは自己以外の自己をあらしめているすべてのものをいいます。他己にもすべてそれをあらしめている意義があるのであります。そして「自己即他己」であり、自他は不一不異一如ということになります。
 ところで人は一度「悟り」を得れば一生それで良いというものではありません。昔中国に百丈禅師という方がおみえになりましたが、この方は「一日不作一日不食」という有名な言葉を残しておられます。真理の実現、体顕には一日たりともおろそかにできません。一生弁道修行というわけであります。その行持は仏の行持であり、自他超越、とらわれのなきあるがままの自己実現であります。

(合掌)

| 前のお言葉 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 |