【今日一日は、当たり前に来ない】
それぞれの人生において、いつ何が起きるのかわからない。天災、人災、予測不能なことに遭う。昨日とあまり変わらない今日が来ると安易に思っているが、裏切られる。思わぬ天災、人災に遭うと「私がこんな目にあうとはなんて不公平だ」と泣けてくる。しかし、生きるとは縁を生きることである。自ら選び取れる縁など高が知れている。無数の縁に支えられて、今ここに私のいのちが存在する。
当たり前には来ない今日一日が今、ここに来ていることに感謝して、充実して生きることが仏道だと思う。
【呼吸のしやすい姿勢は、こころを調える】
極端なこころの活動に振り回されることなく、こころを程よくコントロールしてやすらぎのある生活をしましょう。
【霧の中をゆけば、覚えざるに衣しめる】
私たち人間は、生活環境の影響を受けやすい社会性動物とも言われます。
できることなら、身近な尊敬できる人々を見習い、日々成長してゆきたいものです。
【善きも悪しきもご縁のうち】
「ご縁」という言葉は、お釈迦さまの説かれた「縁起」の教えに由来しています。ものごとすべては網の目のようにつながっていて、相互関係の中で存在する、ということです。それは、自分の思い通りになることばかりではない、ということでもあるのす。自分の思いのままにならない世界で、善き出会いや出来事があったとき、感謝の気持ちを込めて、「縁起」は「ご縁」ということばで表されるのでしょう。
では、悪い出会いやできごとがあったときはどうでしょうか。おそらく、それを「ご縁」と受け止めることは難しいでしょう。しかし、悪しきことが後になって「あれもご縁だった」と思えたことはないでしょうか。それはきっと、悪しきことを自身の体験として、消化し、受け入れ、前に進む力に変えることができた証でもあるのす。
「善きも悪しきもご縁のうち」と受け止めて、やわらかく人生を生きていきたいものです。
【思い切って手放してみよう】
道元禅師は「放てば手に満てり」と示されておられます。「手放すことによって大切なものが手に入る」というお示しです。
「普通はこうだから」と思う前に、本当にそれは自分にとって必要なのだろうか、それが無ければ本当に自分は幸せになれないのだろうかと物事の本質を考えてみる。そして、無くても良いと思えたものは思い切って手放してみる。すると驚くほど心が清々しくなりますよ。
【生で始まらず、死で終わらず】
私達の命は生で始まり死で終わる、自分自身から見ればその通りです。しかし万物から見れば生と死は、宇宙に散らばる無数の物質が偶然この身として集まり再び散って行く、宇宙開闢から続く物語の一場面です。始まりでも終わりでもありませんし、何か誕生する訳でも死滅する訳でもありません。これを不生不滅と言います。
父母から命を受け継ぎ、様々な命をいただき形作られたこの身が荼毘に付された時、身中の水分は天空へ昇り雨と降り、灰は大地に同化しやがて命を育むでしょう。万物と一続き、不生不滅の命を生きている事を思う時、私は不思議な安らぎを感じます。
【野の仏 拝むあなたが仏さま】
野の仏さまに手を合わせている人たちを見ていると、その方たちが仏さまのように見えるときがあります。
手を合わせ、今より「より良く生きよう」とする人たちの、よい心の姿勢が仏さまの生き方そのものだからでしょう。静かに手を合わせるように心穏やかに生活していましょう。
【「辛かったね」の一言が相手を救う】
私たちは人から色々な相談を受ける機会があるかと思います。そのような時私たちは、「何か良いアドバイスをしよう」「何か気の利いた事を言おう」としてしまいます。
しかし、相手の気持ちに立って、心から相手に寄り添った「辛かったね」「頑張ったね」の一言が相手を救うのです。
【いまの一当(いっとう)は、昔の百不当(ひゃくふとう)の力なり】
これは道元禅師様のお言葉です。
今、この私たちの当たり前の暮らしは、過去に数限りなく繰り返された多くの失敗、その膨大な時間と労力の恩恵そのものです。
それは経済的な貧富や、社会的な失敗と成功に限った話ではありません。今、ここに自分が自分として、この命を生きること。この尊い「一当」こそが自他を問わず、目に見えない多くの「不当」のお陰であることにしっかりと目を向け、敬いと感謝、さらには慎みをもって生活したいと思います。
【滴丁東了滴丁東(テイチントンリャンテイチントン)】
これは、文字によって風鈴の音を表現されていますが、きっとこの音は、実際に耳から聞くものではなく、大音量で鳴るものでもなく、一滴の露が水面に落ちた時に奏でる僅かで、ひそやかにあなたの心に響くもの。だから、心を静かにすませて、あますところなく聞きのがさぬように、今この時にあふれる風という命を感じられたのなら、時に追い風のように、時に優しく包むように、あなたの心に響くでしょう。
【スマホから目を離し、四季の変化を観じよう】
歩きスマホは止めましょう!とよく言われます。朝から晩まで、夜寝てからも私たちは、いわゆるスマホ中毒の状態です。玉石混交の情報に振り回されがちですが、ここは道元禅師さまの、山川草木の大自然は、全てお釈迦様のみ教えであるというお示しに依り、スマホの画面から目を離して、四季の移ろいを観じとり、人生の旅路を真に豊かにして参りましょう!
【時間がない時、その時計外せますか?】
忙しい時、慌てているとき時計ばかり見ている自分がいます。
あと10分しかない、あと5分・・・。
先日お会いしたご老師からは「そんな時は時計を見ないようにしてる。だって時間は変わらないからね。」 と言われました。
時計を見ても移動時間が早くなるわけではありません。むしろ時間にこだわって注意が散 漫になってしまします。 心も動揺します。それでも時計にすがる私。
大切なのは 「いまここ」。
あなたは心の時計外せますか?
【自己の命 多くのお陰様に支えられて】
どなたも、大変な事を乗り越えて毎日を重ねます。
あなたにも、悩み苦しむ事が沢山あります。
しかし、頂いたこの命が生まれるまでに、大勢のご先祖様達が
自身の苦悩を乗り越えて精進して下さったご縁が繋がり、
あなたの命へのご縁を育みました。
尊い命を頂き人生を歩むあなたは、多くのお陰様に支えられた賜物です。
ご先祖様に感謝して、愛おしいご自身を大切にしましょう。
【変化を受け入れず自分自身の事ばかり考えていたら人生は苦しいばかり】
お釈迦様は、全ての物事が互いに関わり合う事で変化し続けている世界に私達が生きている事に気付かれました。
新型コロナウイルスが5類に移行しました。
以前のような生活に戻る事もある反面、変わりきってしまった事もあります。
コロナ禍以前のことを思えば受け入れ難い事はたくさんありますが、変化を受け入れていく事で苦しみから少しづつ遠ざかる生き方となるのです。
そんな私を支えて下さるのが人と人との繋がりです。
辛い事があるとどうしても自分の気持ちに囚われてしまいますが、そんな時こそ手を取り合って互いに支え合って行きましょう。
【豊かな心は】
一人一人があらゆるご縁に感謝して、他人と共にあることを素直に喜ぶことで育つのです。
【人生 おり返しから 時間が早くなる】
私達の意識は皆、その時々の感覚から出来ている。
例えば、知らない場所へ車で行く時、同じ道でも帰り道は意外と早く感じる様に、人生も折り返しから早く感じる。
【ときには空っぽから始めてみよう】
私たちにとって、知識や経験は自らの成長を助けてくれるとても大事なものです。しかし、新しく何かを始めようとする時、その知識や経験が思い込みとなってしまい、新しい考え方や方法が、なかなか自分のものになりにくいこともあるでしょう。
道元禅師は、「仏さまの教えを学ぶために大切なことは、まず自分が持っているとらわれた考え方や気持ちを、すっかり投げ捨ててしまうことです」と教え示されています。
コップに水が満たされていると、新しい水をそこに注ぐことは難しいものです。まずは、コップを空にしなければならないでしょう。そして、その教えは仏教を学ぶときに限るものではありません。
新しく何かを始めるとき、それまでの知識や経験を一旦横に置いて、空っぽから始めてみるのもよいかもしれません。
【迷惑は、かけてもいい】
お釈迦様は「人間は一人では生きていくことはできない」という世の中の無常を受け入れ、「支えあって生きていく」ことの大切さを説かれました。
「人間は迷惑をかけながらしか生きられない」
そう思うと、周りのすべてに感謝ができるのではないでしょうか。
「お互い様」の心を大切に、生かされていることに感謝をして生きていきましょう。
【その時、その場所に於いて、そのものに成りきる】
曹洞宗をお開きになられた「道元禅師様」のお示しに「而今(じこん)」というお言葉がありますが「今を全力投球で生きる」という意味です。
【心のざわつきは、心でしずめようとしない】
坐禅をしているとき、頭に浮かぶ考えや思いをしずめようと、心をコントロールしようとしても、なかなかうまくいきません。
そういう時、呼吸しやすいよい姿勢に任せてしまうと、いつのまにか心のざわつきがしずまっている時があります。
心が疲れたとき、無理に心をコントロールしようとせず、「ああしたい、こうしたい」という思いを離れて、なにもかもよい姿勢に任せてみましょう。
【ときには立ち止まり大空を見上げてみよう】
不安や悩みがあるときには、心が騒ぎ落ち着かず、呼吸が浅くなります。
そういうとき、一度立ち止まり、静かに大空を見上げてみましょう。浅かった呼吸が深くなり、しだいに心が調っていくでしょう。
心のざわつきは心の力でしずめようとせず、大空を見上げるようなよい姿勢によって、いつのまにかしずまっていきます。坐禅するように「ああしよう、こうしよう」と頭で考えず、静かに姿勢を正して、大空を見上げてみましょう。
【最後に行き着く安らぎの場所】
さまざまな場所で説かれる仏教徒の生き方は、退屈に感じられるかもしれません。
それは私たちが他人と比較して優越感に浸り、欲を満たすために時間を費やすことに生きる楽しさを感じるからです。しかしそれらはやがて劣等感と怠惰に裏返り、苦しさと虚しさと生きづらさに姿を変えることはご存知の通りです。
ですが自分も他人もかけがえのない存在であり、この一瞬は二度と訪れないという事実を素直に受け止めれば、自分を尊重し他人を尊重し、今を大切に生きる他ないと気付くはずです。生きることの素晴らしさに気付くはずです。
「行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし」「仏教徒の生き方は世の人に好まれないかもしれませんが、実は最後に行きつく安らぎの場所なのです」道元禅師のお言葉です。
【その思いにしばられないで】
私たちは、自分の気持ちや考えが正しい、と思うと、その思いから離れるのが難しくなります。他の人からの助言や忠告を素直に受け入れられないのは、そんなときが多いようです。
道元禅師は、『正法眼蔵随聞記』という書物の中で、次のように教え示されています。
「過去の思いにとらわれず、時とともに改めてゆくことが大切である」
この教えは、仏さまの教えを学ぶときの大事な心構えとして説かれていますが、私たちが心軽やかに生きてゆくための教えとして受け止めることもできるでしょう。
過去の思いから少し離れ、周りを見てみましょう。きっと、新しい景色が見えてくるはずです。
【本当に「自分が正しい」か】
その時正しかったものが、時間や条件により間違ったものに変わることがあります。世の中の「常識」もそうであるように、「正しさ」とは変化するもの。
また、それを決めている「自分」という存在も変化しています。年を重ねて価値観が変わったり、一日経っただけで全く違う気持ちになったりと、そんな経験はあるでしょう。
確かに信念をもって生きることも必要です。それでも大切にしたいのは、自分が正しいと信じていることは、「変わっていく自分が、その時思っている程度のこと」と知る態度。自らの決めつけの呪縛から解放されて、しなやかに生きたいものです。
【苦楽をわけて生きる】
お話しをして下さる人の中に聞いてほしいと思っている人が多くいらっしゃいます。私もその一人でありますが、「うん、うん」と聞いてくださることで救われた経験があります。もちろん悦びも同様だと思います。例えば胸の内を聞いてもらうことや話すことは一つのものをみんなでわけることに似ていて、その共有感が生きる力となるのです。
後に気がついたことがあります。それは私の苦しみをわけて持って帰っていただいたように思いますが「苦しみがなくなった」わけではありません。実は私自身の「苦しみではなくなった」に変化したのだと感じました。つまり、人が人を受け入れるということは苦楽をわけて生きることなのです。
【今の行いが未来を創る】
永平寺七八世宮崎奕保禅師は「仏の真似を1日真似れば1日の仏。3日真似れば3日の仏。一生真似ればそれは本物だ。」とおっしゃられました。
私達は「今」の行いの積み重ねによって生き方が身についていくのです。
善き行いを重ねれば善き人と成り、悪しき行いを積み重ねれば悪しき人となります。
まずは真似でもいい。
一日一日善き行いをして怠る事無く積み重ねていく事で、「善き人」と成るのです。
【けつまづくのは足下(あしもと)です】
人生では、遠くを見る事も必要でしょうが、
先ばかりを見ていてはいけません。
自分の今を見つめ直す事も大事です。
【限りなき欲望なれど いずれ流れる】
願いや望みを持つことで、やる気を起こし、前へ進むことが出来る。
欲望は一概に悪い言葉とはいえません。しかし過ぎると強い失望感を抱いたり、人間関係にも遺恨を残こすことがあります。願いや望みは、度合いやさじ加減が必要です。
「限りないもの それが欲望。 流れゆくもの それが欲望。」
流してもいい望みは、とどめないで捨てる覚悟も必要です。
禅語で云えば「放下著」(ほうげじゃく)。ほうり出せ。投げ捨てよ。とらわれを放ち捨てよ。
【微笑みをもって共に歩む】
ある時、釈尊は大勢の弟子達と共に霊鷲山にいた。釈尊は一輪の花を手に掴んで弟子達に示した。弟子達は釈尊の意図するところが理解できずに黙っていたが、摩訶迦葉だけはその真意を悟り微笑した。
これは、「拈華微笑」と言われる逸話です。
花を差し出す。それを見て微笑む。ただそれだけのこと。しかし、言葉では表現できない心の触れ合いがあった。言葉では語り尽くせない仏法の本質を心と心で通じ合わせた、という内容です。
このお話は、お互いの心を触れ合わせることの大切さを示しております。
誠意を込めて行動に移せば、どんな言葉よりも通じることがあります。心からの微笑みは、人の心を動かします。微笑みを持つこと。ただこれだけで心が温かくなります。
【無理せんでいいがね】
「自灯明」
「頑張れ」「やればできる」他者の無責任な励ましは、時として自らの命も死に追いやってしまう。「無理」の範囲は自分が決めること、他者から押し付けられるものではない。
辛いことも自分が決めた理想に進むなら、むしろ私の心は喜びを感じ幸せを感じる。
だけど私の幸せは人との競争じゃない。私が思い描く理想に向かう努力と成長の中で私自身が内に見つけ感じ取るものである。
【受け入れることで楽になる】
「受け入れることで楽になる」とお釈迦様は示されました。
今、置かれている状況は、実はありがたさに満ちているのではないでしょうか。
目が見えること、耳が聞こえること、呼吸ができること、食べることができること、自分の足で歩けること、話ができること。
ありとあらゆることを受け入れた瞬間から、すべてが感謝になるのではないでしょうか。
【「放てば手に満(み)てり」執着を離れて知る幸せがある】
「あれも欲しい、これも欲しい」、「あれもしたい、これもしたい」と、私たちの欲望は尽きる事がありません。しかし、どこかでそれをやめないといつまでたっても荷物は重くなるばかり。私たちは知らず知らずのうちに、不自由な生き方をしているかもしれません。
道元禅師様は「弁道話(べんどうわ」」の中で、「放てば手にみてり」と示されました。両手に握りしめていたものを手放してみると、そこには満ちあふれた自由な世界が無限に広がっているという教えです。
この世界は元々誰のものでもありません。欲望を満たすだけの幸せをやめて、とらわれのない自由な世界で軽やかに生きたいものです。
【かたよらない ものの見方】
断見(原因も結果もない、死んでしまえばすべて無し)と常見(死んでも死なない、今、生きている自分が形を変えて続く)。この二つの極端を離れた中道が釈尊の教えです。中道とは、中間的なものというだけではなく、釈尊がみずから実践して「さとり」に至られた道です。ひと言でいえば、かたよらない ものの見方と言えます。
【あなたは願われて 今を生きている】
この世に生を受けた瞬間に「この子には幸せになってほしい」という願いが込められます。
この願いが脈々と受け継がれた命で今の自分があります。
ご先祖様は皆、我が子の幸せを一途に願い懸命に生きてこられました。
幸せを願われてはじめて今を生きることができる私たちなのです。
もしご先祖様の中の一人でも我が子の幸せを願ってくれなかったら、今の自分がいないわけです。
だから、感謝せずにはいられない、感謝の気持ちを伝えたいというお勤めが先祖供養なのです。
【花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり】
花の命は短くて、人々に愛されながらも、惜しまれながら散り、ひとの嫌がる雑草は、嫌われながらも強(したた)かに生(お)い出でる。
まことに、その通りだなと思います。私は、面倒な庭の草取りをするたびに後半の言葉のリアリティーを実感しています。
この「一句」は、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)第一 現成公案(げんじょうこうあん)』の中の言葉です。水野弥穂子先生は、「現成公案」を注して「現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること。」としています。
花が散るのも真実。草が生えるのも真実。散るも生えるも"いのち"の在り様、どちらも、そのままで何不足ない真実。平等ないのちの真実です。
人間の愛惜や棄嫌と関わりなくいのちは、働いています。いや、人間の愛憎を超えて、万物が、あるがままにかくあらしめられている働きをこそいのちと言うのだという考え方が、この「一句」に示されています。
【その時、その場所に於いて そのものに成りきる】
曹洞宗開祖 道元禅師様のお示しに「而今」というお言葉があります。
「今を全力投球で生きる」という意味です。
【本当のことを言われると耳が痛い】
ズバッと欠点を指摘されると受け入れがたいです。すぐに反論を考えてしまいます。
そのような態度を改めて、よきアドバイスをしてくださったのだと受け入れた時、私たちは人間的に成長します。
【便利は不便 不便は却(かえ)って便利なり】
“チン”とやれば直ぐに温かな物が食べられ、ひねればいつでも水が出る様な便利な日常ではあるけれど、50年も前なら、何をするにも時間が掛かり、肉体労働による事ばかり。
でも、停電したって、断水したってそんなに大騒ぎして困ることはなかったでしょう。
【輝いて草に宿る露の命尊し】
朝日に照らされて色鮮やかに光り輝く草に宿る露。しかし、その美しさもつかの間、日が昇るにつれて消えて無くなってしまいます。
ほんの僅かな雫の中に、鮮やかな彩りを映して静かに消えていくその姿は、私たちに大事なことを教えてくれています。
私たち一人ひとりの命は有限です。もし永遠に続くのだとしたら、それはもはや命とは言えないでしょう。草に宿る露のようなはかなくもろい命、だからこそ尊く、美しいのです。
終りのある事を知りながら心豊かに丁寧に生きる、そんな命の輝かせ方を、私たちはしたいと思います。
【思いを手放し自己との絆を紡ぐ】
人間関係で苦しんでいませんか。他者とではなく自己との間で。
私達は勝手な物差しで世界を測り、自惚れ卑下し自らを溺愛し嫌悪します。思いに追い立てられブレ続け大変付き合いにくいのが自己です。しかし人間には母子のように損得好悪を超えて慈しみ合う関係もあります。どう思おうとも自己の命は自己が生きる他ありません。その事実に立ち返れば、自己とはかけがえのない何とも愛おしい存在です。他者との真の絆が恩讐の彼方に結ばれるのであれば、自己との本当の絆も思いを超えた所に紡がれるはずです。
坐禅は思いを手放した姿、自己との最も親しい付き合い方、その実物です。
【一服しよまい】
「喫茶去」
社会も人の心も忙しいこの時代、我を忘れて猪突猛進ばかりしていると思わぬアクシデントに見舞われるのでは?
私達の日常は知らずしらずのうちに「義務」や「責任感」「ノルマ」に追われる日々を過ごし、自分の健康や足元が見れない生活をしているのではないでしょうか。
心に余裕がない時や疲れた時は、一服して自分や周囲、物事の本質を見つめる余裕を持ちましょう。
【「あなたがいてよかった」と言われる幸せ】
人生の最高の幸せは「あなたがいてよかった」と言ってもらえること。
誰かに尽くすこと、
尽くす相手と出逢うこと、
尽くす時を過ごすこと、
人間は誰かのために尽くすために、
生まれてきたのだ。
【他人(ひと)の財布をあてにしてないか】
共生き、互助という言葉のもとで、
それに慣れすぎて他人を(財布ばかりじゃないぞ)を
あてにばかりしてはいないかい?
相手にだって、あてにされているんだぞ。
【恨んではいけないと思う、あなたのその苦悩には意味がある】
「恨みとは恨まないことによってのみ消える。」これはお釈迦様の言葉です。世界でおこる戦争やテロのニュースに触れるたびに、私はこのお釈迦様の苦悩に満ちた言葉を思い出します。
恨みを晴らそうと報復すれば、恨みは増幅され、また新たな恨みを生んでいくこと、恨みを恨みで晴らすことは出来ないことを、私たちはすでに知っています。だからこそ私たちは、いかんともし難い自分の恨みの感情に苦しむのです。
しかし結局、恨みを抱いたその時、憎しみの連鎖を止められるのは、他者ではなく、自分でしかありません。そしてそれはとても苦しいことです。ですからお釈迦様は頭ごなしに、恨んではいけないとは言いませんでした。あなたが、恨んではいけないと思い、苦悩しながら歩むことには意味があり、それはそのまま仏の道であると言っているのです。
【この言葉、語るべきか、語らざるべきか】
誰かの何気ない一言で傷ついたことが、皆さんにはありませんか?
そして、自分の何気ない一言で、誰かを傷つけてしまったことがありませんか?
道元禅師は、『正法眼蔵随聞記』という書物の中で、ものを言おうとするときには、三度考え直してから言うことが大切だ、と教え示されています。何度も考え直して、善い言葉であり人の為になるのであれば口に出し、そうでなければやめておきなさい、というのです。
言葉には、私たちが思う以上に、強い力があります。口から出た言葉は消えてしまうことなく、相手の心に残り続けます。相手を傷つける言葉であれば、相手を苦しめ続け、善き言葉であれば、相手を救い続けます。
私が今語ろうとしている言葉は、相手を傷つけないだろうか、相手のためになるのだろうか。この言葉は、語るべきか、語らざるべきか。口に出す前に、三度とはいかずとも、一度は考え直してみたいものです。
【合掌は心のアンテナ。いつもいつもつながっているよ】
私たちは、昔から仏さま、ご先祖さまや目に見えないところにあるものを大切にして敬ってきました。
人間は、生きていると自分の思いどおりにならないことにも出遭います。どうしていいのか分からなくて、迷ったり悩んだりします。全部自分の心の中にためこんでしまうと苦しくなります。
そんな時には、仏さまに手を合わせてみましょう。心の中にためこんだものを半分仏さまにお預けすると心も軽くなり、また道も開けてくることでしょう。
一人ぼっちになって寂しいときには仏壇に向かって手を合わせてみましょう。
「毎日まいにち手を合わせているうちに゛大丈夫、心配ないよ゛とご先祖さまの声が聞こえてきて、いつの間にか元気が出てきた」と。
手を合わせれば、いつも仏さまやご先祖さまが見守ってくださっています。生きる力をいただくことができるのです。
【寒苦、人をやぶらず 不修、人をやぶる】
真冬の寒い朝、「布団から出たくない。もう少し眠っていたい。
でも、やるべき仕事や役割がある」と葛藤することはありませんか?
私たちの人格は日々の生活習慣によって作られます。
そうして形成された人格は、私たちの人生に大きく影響します。
寒さではなく、サボりたいという弱い心が人生を台無しにしかねないと大本山永平寺を開かれた道元禅師はお示しです。
【貪ぼれば憂いが増え、分かち合えば幸せ増える】
「少欲知足」 自分が十分に足りている事を知り、むやみに求めない事です。
これは、お釈迦様が臨終の際に残された教えの一つです。
欲望とは際限なく湧いてくるものです。この気持ちに素直にしたがって行けば得られない事への苦しみ、失う事への恐怖、怒りによる奪い合い。
自分自身を苦しめる事ばかりになります。
相田みつをさんの詩に「奪い合えば足らぬ 分け合えばあまる」という言葉があるように、奪い合い憎しみ合うよりも、分け合い互いに感謝の心を持った生き方の方が、幸せな生き方です。
この生き方が問題解決の糸口となるはずです。
【カッとして 思わず 怒声を発してはいないですか】
自分の思いのママにならない時に、思わず怒声を発する事はないですか?
時が過ぎてみると、相手に発したはずの怒声が却って我が心を苛(さいな)み、いやな気分になる事が多いもんです。
【呼吸を調え、こころを調えよう】
からだを調えると、自然に呼吸が調います。そして、心が調っていきます。心が調うと、悩みや不安、恐れからすこし離れることが出来ます。
また、怒っているとき、怒りをしずめることもできます。
からだ・呼吸・心を調えるのが坐禅です。
坐禅をして安心した生活を送りましょう。
【今日という一日は二度と帰ってこない】
言い古された言葉ですが、心の底からその通りだと思って今日一日を過ごしているでしょうか。感動や楽しみ、努力や向上がなく流されるままに今日一日を過ごさなかったでしょうか。
「今日という一日は二度と帰ってこない」という自覚がなく過ごした日々は10年20年でもあっと言う間に過ぎ去ってしまいます。気が付かないうちに重篤な病に冒されているかもしれません。若いときのように身体が機敏に動かず事故に遭うかもしれません。今日と同じような明日が来ると誰が保証できましょう。
私たちはそのような危うい「いのち」を生きています。
明日をも知れぬこの危うい「いのち」を自分にも他人にも利するように使って、悔いを残さない今日一日の過ごし方が仏様の教えです。
【大丈夫 いつもあなたは幸せを願われているから】
私たち僧侶は、毎朝、朝課という朝のお勤めをしております。曹洞宗ではこの朝課をとても大切なものとして行い続けてきております。
朝課は、お経の功徳を仏さまにお供えすることからはじまります。しかし、そこで終わりではありません。お経の功徳が、仏さまのお力によって、すべての人々に廻り、すべてのいのちが幸せで安らかであるようにと願う。それがお経の本当の意味なのです。
だからこそ、伝えたいことがあります。それは「皆様は一人ではない」ということです。毎日、皆様の幸せを願っている僧侶がいるということです。
いつでもお寺は皆様の拠り所です。だから、安心して毎日をお過ごしください。私たち僧侶の願いが皆様に届き、心温まる毎日になりますことをお祈りいたします。
【栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)し】
「栴檀」は「白檀」を意味する。
すばらしいのはその香りで、植物性の芳香剤、香料としてはもっとも人気がある。
伝説によれば、お釈迦様が亡くなったとき、そのご遺体を荼毘に付す時に、この樹を使ったという。
これほどすばらしい香りを持つ栴檀(白檀)は、双葉の時から、つまり芽が出た一年目の段階から芳香を持っている。
世にこの人ありとうたわれるような人は、幼いときから、その兆しがありありと見えるということを意味する。
【而今(にこん)に生きる】
ゆったりとお腹から空気を自然に吐き出してみましょう。身体から空気が出て行くと自然とお腹に空気が戻ってきますね。もっと自然とできるように繰り返してみましょう。
さて、私たちの体は呼吸がないと生きていけません。つまり食事以上に呼吸は生きる糧なのです。呼吸を意識して生きることは、すなわち今を生きる、「而今に生きる」と言えるでしょう。姿勢を正して視線を落としゆったりと吐き出すと坐禅になります。私は一日何度もひといき坐禅として呼吸を繰り返します。普段のあなたの生活の中でゆったりとお腹で呼吸を繰り返すと、等身大のあなたや周りが見えてきます。まずは心を静め、「今」を感じてお腹の空気を全部吐き出してみましょう。
【このひと息がありがたい】
病気になったり、大切な人を亡くしたりすると命の大切さ、ありがたさを実感します。
限りある命であることを知りながらも、今日はだいじょうぶ、明日もだいじょうぶと、むなしく一日を過ごしてしまうことがあります。
身をととのえ、息をととのえ、心をととのえ、一日一日、ひと息ひと息を大切に生きていきましょう。
【私たちの全ての借り物を明日に繋げよう】
身の周りにある万物すべてが借りものであります。
胃袋一つとっても常在菌の活躍や胃酸の働きがあるように私たちの意志とは別に動いています。
ところが唯一、私たちの心(意思)だけは自分で働きかけが出来るのです。心はとても周りの良しあしに左右されやすい特徴があります。
そこで心以外の全ては借りものであり、私たちは生かされていると気がつくことが大切であります。
心の中に生まれる感謝がご縁をより強く感じて、より良い言動となり明日に繋がるのです。
【素直な心に仏の道を見る】
損得や偏見や自分の「我」で物事を見ると道をあやまることがあります。
にごりのない素直な心に立ち帰れば正しい道が見えてきます。
素直な心になって生きていくことを仏道というのです。
【退歩こそが一歩を踏み出す力となる】
永平寺のご開祖・道元禅師が説かれた「普勧坐禅儀」の一説に「須く回向返照の退歩を学すべし」とあります。
回向返照とは外に向けていた光を自分に向けるという事です。それは自分自身を顧みるということです。私達は人生の中で沢山の経験や知識を得ながら自分自身の進歩を求め生きています。
求める気持ちは大事ですが、自分自身を顧みることを忘れ、脚下(きゃっか・足もと)が疎かになる危うさもあります。
次へ次へと進む世の中において敢えて立ち止まり、一歩下がってしっかりと脚下をみつめてこそ
(自分自身を顧みる)次の一歩がしっかりと踏み出せるのです。
【「あたりまえ」に「ありがとう」】
食べられること 眠れること
学校にいけること 友達と遊ぶこと
家族で話せること 大人が仕事をすること
健康で安心なこと それはあたり前だった
それが幸せに変わった
阪神大震災を経験した当時小学校5年生の女の子が詠んだ詩。
当たり前のように思える日常の何気ないやりとり。
この「普通に生きている」ことが、いかに有り難いことか。
そう思えるその心こそ「生きる意味」においてとても大切な事だと気付かされます。
「あたりまえ」が、どれだけ「ありがたい」ことか。
いつも心に留めて。
【やってあげていると、思うと腹が立つ】
無事に暮らしていけるのは、あらゆることを皆さんにやっていただいているからです。それなのに、ほんの少しだけ人のお役に立つことをした時、「やってあげた」という気持ちが起きませんか。
そんな気持ちを起こすと、心がおだやかでなくなります。相手が「ありがとう」と言わない、私の思っていたように相手が動かないなど次々と不満が出て来て、ついには腹が立ってしまいます。
これでは人のお役に立ったことになりませんし、自分のためにもなりません。
日頃、皆さんにやっていただいているので、ほんの少しだけ恩返しをさせていただいたと思っているほうがよいようです。
【生かされて 今いのちあるは ありがたし】
私たちは、自分の意思で、今この時代に、人間として、この私として生まれてきたのでしょうか。決してそうではありません。
私たちは、自分の意思で、呼吸をし、心臓を鼓動させているのでしょうか。決してそうではありません。
私たちは、自分の意思で、病気になり、やがて老いていき、そして死んでいくのでしょうか。決してそうではありません。
それはまさに生かされているということ。
無条件に生まれ無条件に死んでいく、そんな命の在り様をまるごと受け入れて、それでも生かしていただいて良かったと、心から感謝できる、そんな生き方ができたらいいと思います。
生かされて、今いのちあるは、ありがたし。
【他人を我が身にひきあてて考える】
お釈迦さまが教えられた慈悲行の根本です。私達はついつい「私だけ」という小さなのぞき穴から物事を見がちではないでしょうか?
自らの都合だけを先にして「良いことは受け取り、嫌な事は知らん顔をする」といったように、自分の事しか考えないわがままな心はないでしょうか?
自らの関わることから目をそむけず、他人を我が身にひきあてて考える。
これにより相互関係となる和が保たれ、皆が幸せな日々を送ることが出来るのです。
【悩みのない人は いない】
「猫は悩まないからいいなぁ。犬は尾を振ると可愛がられるからいいなぁ。」
と言う人がいます。
そこで
「猫に生まれたら良かったのにね。でも、良いご主人に恵まれないと野良猫になって大変なことになりますよね。良い飼い主に巡り合うと良いですね。」
と話すと
「猫は気ままだから。」と返ってきました。
猫や犬は飼い主を選ぶことができません。ただ他の広い世界を知らないだけなのです。悩みがないように見えるだけなのです。
人は自分で自分の道を選ぶことができます。知恵があるから解決しようと努力することができます。昨日や過去は変えられませんが、明日からの未来を切り開くことができます。一歩を踏み出す勇気を持つことができるのです。
悩みが消えることはありません。悩みは一度横に置いて、正面をみてプラス思考で歩み出してみませんか。必ず救いの光が見つかるはずです。
【笑顔は、こだまする】
人から笑顔を向けられると、思わず自分まで笑顔になってしまうなんてこと、みなさんにはありませんか? 反対に、自分が笑顔で話しかけると、相手もにっこりして返事をしてくれることもありますよね。私たちの笑顔は、こだまのように相手に響いて返ってくるようです。
曹洞宗を開かれた道元禅師は、他者を拒まず、受け入れる生き方を「同事」という教えとして示されています。それは、いつもやわらかな面持ちで、すべての人びとに、すべてのできごとに向かい合う、という生き方です。
やわらかな笑顔は、やわらかな笑顔で返ってきます。たとえ、落ち込んでいるときでも、さびしいときでも、笑顔でいたいと願うのです。そうすれば、こだまとなって返ってきた笑顔は、自分の心をやさしく包んでくれるでしょう。
【天知る 地知る 己れ知る】
人の心はそう強いものとも云(い)えないでしょう。一般常識として、善い事と悪い事とは誰もが理解しているのでしょうが、ヤヤもすると、他の人に見られていなければとか、他の人に知られなければ、と思いもし、考えもして、ついつい悪に流れることもあるでしょう。
人に知られないとしても、お前を掩(おお)う天は見ているぞ、お前が足を置いている大地は知っているぞ、第一、自分自身には嘘をいう事も、騙(だま)しようもないぞ!!
【そこに慈悲の心はあるか】
今、ここに慈しみの心はあるか。
「慈悲」とは、相手のことを思い慈しむ心のことです。
人間は「我(が)」が出てしまうものです。自分勝手なことばかりをして、我ばかり通していては、世の中はうまくまわっていきません。お互いの心がうまくかみ合っていかない時には、どこかに「慈悲の心」が欠けていないか。一つひとつ物事を行う時には「そこの慈悲の心はそなわっているか」日々チェックしてみましょう。
【過去も 未来も 想わず 今を清々と生きる】
悩み事はつきないもの。しかし、よく考えてみると、過去に起こった出来事で苦しんだり、これから起こるかもしれない不安に、現在の「私」が振り回されていることのほうが多いようです。
過去や未来を考えすぎず、今を清々と生きましょう。
【よき人と ともに よき人として ともに】
道元禅師の教えを書き記した『正法眼蔵随聞記』という書物の中に、「霧の中を行けば、覚えざるに衣しめる」ということばが出てまいります。
霧の中を歩いていると、いつの間にか着物がしめっているように、善き人のそばにいると、いつの間にか自分も善き人になっている、という意味のことばです。
私たちは、善き付けにつけ悪しきにつけ、周りの人の影響を知らず知らずのうちに受けるものです。もし、尊敬できる人、こんな人になりたい、と思える人に出会えたならば、その縁を大切にして一日一日を過ごしていきたいものです。
そして、自分自身もまた、他者にとっての「善き人」となれるよう、願うばかりです。
【あなたの優しい一言が心の支えになり 生きる力となる】
言葉には魂が宿るともいいます。相手を思って話すことの大切さを忘れないでほしい。
言葉一つで相手を笑顔にさせることも怒らせることも出来る事は皆さん知っていることと思います。同じことを言うにもちよっと考えて相手を傷つけない言葉を使ってほしい。目は心の窓といいますが言葉も又、心の窓ではないでしょうか。
素直な心で相手を思いやること。そこに、慈しむ心、育む心も大切なのではないでしょうか。
知っててほしいのです。あなたの言葉一つで救われる人がいるのです。心温まることだってあるのです。気付かされることもあるのです。苦しみ悲しみはを背負っているからこそ、一歩前への勇気につながることを信じて寄り添える人間(ひと)でありたいと願うのです。
「あなたの優しい一言が支えにもなり、生きる力ともなるのです」
【『忘れない』という供養がある】
私たちの命には限りがあり、限りあるからこそ尊いのですが、肉体の命は臨終の際に途絶えても、生前中の故人や故人との思い出を大切に覚えている人々がいらっしゃることに価値がある。
また立派な人柄を慕って見習う存在がありつづければ、故人は私たちの心の中に今なお生き続けてくださるのではないかと考えます。
【感謝の心が私の命を輝かせる】
お釈迦様の教えに「縁起」と言う教えがあります。
「全ての現象は互いに関わり合って成立している」
私達が誕生した背景には沢山の御先祖様の命があります、そして私達が生きる上でも支え合い無しでは生きていけません。
生かされているこの命に向き合い、感謝の心を持つ事が『どう生きるか?』
の答えになるのです。
【徳を養う人は 善き根を広げ 必ずや花を咲かせ 実を結ぶ】
私どもの宗旨は、達磨大師の時代(中国の南北朝)に梁の国を訪れ、禅宗の祖といわれている。
その結実は、只管打坐の坐禅三昧であり、その教えを継承しているのは、現在 臨済宗・黄檗宗・私の曹洞宗である。「一華五葉に開き 結果自然になる」と、当初は五葉といって、五宗派に分かれましたが、我が国においては、先述の三宗派であります。
徳を養うというは、善根を積むことであり、積善の家に余慶ありとも申します。その善き根を、人々に巡らせば、必ずや花を咲かせて実を結ぶに繋がる事と信じて止みません。
過般の西日本豪雨災害にボランティア活動をされた方、義損金を寄付された行為等々、全て善根に通じます。
「咲いた花みて喜ぶならば 咲かせた根の恩を知れ」とのことです。
皆さま、ご精進あれ!!
【お天道様はお見通し】
仏教の戒めに“悪いことをするな、良い事をせよ”とあります。
私の都合では考えれば、善悪はすぐにつきます。しかし、真剣に考えた時には、その善悪の境界は中々に難しいものです。他の人に見られてなければ「ツイツイ」「解ってはいたけれど」と、道を踏み外してしまう時がありますよね。
「天知る地知る己知る」と云う言葉もあります。
「他の人には見られていないかもしれないけど、お天道様は見ているぞ。第一お前自身が知っているじゃないか!」と云う事ですね。
【喜捨】(きしゃ)について
他の人に助力した後で、「あの時、あんなに助けてやったのに!」と思ったりすることはありませんか。他の人に手を差し伸べる事は尊い行為です。しかし、手を差し伸べたときには、その善行は完結しているのです。そのことをいつまでも「してやった」と、心に残したり、誇ったりしたのでは、却ってわが心が汚されるというのです。だから喜んで捨てるのです。
「喜捨」とはそのことを示しています。
お賽銭箱にもよく書かれています。
2018年7月掲載
【面目】(めんもく)について
一般的には「面目(めんぼく)無い」などと使われ、世間に対する名誉や体面、世間からうける評価などをいいますが、もともと禅宗で用いられていたことばで、「めんもく」と読みます。
「面目」とは、「顔」そのもののことで、「目は横につき、鼻は縦についていて、何も隠しようのない真実の姿そのものが、そのままにあらわれている」ということをあらわしています。その真実の姿であり、ありのままの姿を「本来の面目」とよびます。
しかしながら私たちは、本来はありのままに見えているものを、自分の好き嫌いや思い込みで見ていることが多いのかもしれません。それらが多いほど、生きるのは辛くなります。自分の生きる世界を自らがせばめている、といってもよいでしょう。
自分の好き嫌いや思い込みから離れ、本来の面目のままに見ることができるならば、世界はもっと素晴らしく、生きやすい大きな世界になることでしょう。
2018年6月掲載
【微塵】(みじん)について
「そんなことは微塵もない」「木端(こっぱ)微塵(みじん)」などと言われるように、「微塵」とは極めて細かいこと、わずかなものを表す言葉です。これは仏教の物質観でいうところの極小の単位です。私たちの住むこの世界は微塵の集まりでできています。つまりは全てが微塵であり、微塵が全てなのです。
道元禅師さまは修行道場における食事係の心得を示した「典座(てんぞ)教訓(きょうくん)」の中で、「一微塵に入(い)って大法輪(だいほうりん)を転(てん)ぜよ」とおっしゃいました。
「わずかな事柄でもおろそかにすることはできない。わずかなことの中にこそ真理の全体が表れている。」というお示しです。
きめ細かに、そして具体的に動くことを怠っては、いつまでたってもそのもの本来の大切さに気付くことはできません。些細なことだからこそ、誠心誠意、真心を尽くしていきたいものです。
2018年5月掲載
【獅子吼】(ししく)について
禅問答がすばらしかったとき、獅子吼不尽と賞賛します。
つまり、御釈迦様の教え、御説法は未だ尽きることなく受け継がれて続いているぞ、ということです。
獅子(ライオン)は、古くはインドにも居りました。
日本には飛鳥時代に言葉、形と信仰は伝わっていました、
仏教とともに
2018年4月掲載
【無縁】(むえん)について
仏教の根本的教理に「縁起」があります。縁起とは、すべての現象は原因や条件が相互に関係しあって成り立っていると考える見方です。この見方からすると無縁のものは何ひとつ無いはずです。ただ、縁に気づいていないだけではないでしょうか。
また、「我が身がかわいい」という心の働きがある限り、自分に都合のよい縁だけに注目する傾向があります。そして自分に不利益になる縁には目を背けてしまいます。
いうまでもなく、私が先に存在しているのではなく無数の因と縁が私になっているのですから、自分に都合のよい縁だけに注目していたなら行き詰まってしまうでしょう。
行き詰まりのない人生を送るには、今ここ自分に出会った縁を大切にして丁寧に生きることだと思います。
2018年3月掲載
【達者】(たっしゃ)について
現在では、心身に病がなく、なにも心配する必要が無く健康なことを「達者」と使われております。
しかし、もともとは仏教語で「目標に達した人」「悟った人」。
「芸達者」などと使われている様に奥深いところを極めた人と意味があります。
2018年2月掲載
【測量】(しきりょう)について
一般的に「そくりょう」と読まれ、器械を使って物の高さや深さ、広さなどを測り知ることを意味します。一方仏教では「しきりょう」と読み、分からないものに対して、だいたいの見当をつけることで推し量ることを意味し、測量することで迷いや苦しみが生まれる、とされています。
私たちは他人の心の中や、起きているものごとを、定規で物を測るように正確に測り知ることはできません。それ故、私たちは「自分だけのものさし」で、他人の心やものごとを推し量ろうとします。
しかし、「自分だけのものさし」は、決して正確ではありませんし、「自分に都合のよい」ものさしになっていることも多いでしょう。結果、自分に都合のよくない「人」や「ものごと」を受け入れられず、人間関係で苦しむことにもなります。
まずは、「自分だけのものさし」を手離してみましょう。柔らかな気持ちと考えで、人もものごとも受け止めることができれば、生きるのがほんの少し楽になるかもしれません。
2018年1月掲載
【降伏】(ごうぶく)について
「戦いに勝って降伏させる」というように相手を打ち負かし服従させる意味に用いられる「降伏」という言葉。本来は仏教語で「ごうぶく」とよみ、煩惱やそれにともなった悪行などから離れ、身も心もよく調え、落ち着かせることを言います。これは「相手に対して」ではなく、実は「自分に対して」用いられる言葉なのです。
お釈迦様はかつて、自らに悪魔のように押し寄せる様々な煩悩をときふせ、お悟りを開いたといわれています。それは自らにある決して消すことのできない欲望が、どうあるべきかという問いに真摯に向き合い続けた姿でありました。
降伏させるべき欲望は私たち人間が生きていく上である意味においては必要なものであります。しかし、その欲望も向ける方向を間違えば、たちまちにして底なしの迷いの淵に陥るでしょう。それをよく制御し調える智慧を持ってこそ、人間の生きる意欲や希望となり得るのです。
2017年12月掲載
【大心】(だいしん)について
私たち和尚は、僧堂(修行する為の寺)に修行に行きます。僧堂に集まってくる修行僧は、それぞれに経歴や年令、性格も違います。しかし、僧堂に入れば、皆、同じ事を行います。私は、名門○○大学を卒業した。僕の父親は、立派な役職をしている。そんな事は一切通用しません。朝、起床の振鈴が鳴れば、一斉に起き、顔を洗い坐禅をします。お経を読み、共に作務を行い、汗を流すことで、「俺は、私は」という執着を離れ、みんな一つに溶け合って清らかな心になっていくのです。
2017年11月掲載
【勘弁】(かんべん)について
禅寺の修行では問答を行ないます、先生のお役の和尚さまから修行僧に課題を出されることも有ります、その答えが合格か不合格かを判断する際にこの言葉が用いられたそうです。字の意味は「勘」調べる「弁」弁別する、見分ける、となります。
私たちの暮らしの中でも、正しく「勘弁」をして許し合える心、認め合う心を大切にしてまいりましょう。
2017年10月掲載
【喜心】(きしん)について
私たちは、相手より高級な服を着ている、値段の高いものを身につけている、相手と比較して優位に立つ事で喜びを感じることがあります。
喜心は自分の欲望を満たすことだけで得ることのできる喜びではありません。見かけの勝ち負けや、損得よりもまず相手の事を思い、誰かのために一生懸命行うことによって、得ることのできる清々しい心の事です。
人生は、必ずしも楽しい事ばかりではありません。時には悩んだり、迷ったり、悲しい思いをすることもあります。そんな時に相手の心に寄り添っていける、やさしい心なのです。
2017年9月掲載
【退屈】(たいくつ)について
退屈といえば何もすることがなく暇を持て余すことを意味する言葉としてよく使われます。
退屈というとすぐにあくびの一つも出そうな情景が浮かびます。
辞書には、なすべきことがなく時間を持て余し、その状況に嫌気がさしてる様。実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情は困難にぶつかって尻込みする事、とあります。
退屈を乗り越えていくには、師と友が大切です。自分を育て導いてくれ、人の生きざまをみせる師と、悩みながらも頑張って生きている友の姿が、自分自身の歩む方向を確かめさせてくれ生きる力を与えてくれます。
問題に直面した時、師や友の事を思うと自分だけが苦しんでいるのではないことを実感する事でしょう。周りにも同じ苦しみを持った人がみえてくるかもしれません。そこからが退屈のない人生の始まりです。
2017年8月掲載
【所詮】(しょせん)について
もとは中国仏教の学術用語で、真理を明らかにする教えを「能詮の教」といい、その教えによって明らかにされた真理を「所詮の理」とよびます。一般的には、「考えつくした結果」「結局は」という意味で、「所詮どうにもならない」「所詮無理だろう」など、ものごとに否定的な使われ方をされます。
「所詮」ということばが口がら出るとき、私たちの心の中はものごとに失敗した悔しい気持ちや、自分の力ではどうにもならないという悲しさで、前に進む力が失われてしまっていることが多いのではないでしょうか。
そんなとき、お釈迦さまの教えにほんのちょっと耳を傾けてみてください。それまで考えもしなかったようなものの見方や、発想の仕方に気がつくでしょう。「どうにもならない」ことが、「どうにかなる」と思えたり、「どうでもよいことだった」と気がつくことがあるかもしれません。
「所詮どうにもならない」と途方にくれたとき、ほんのちょっとものの見方を変えてくれるのが、お釈迦さまの教えなのです。
2017年7月掲載
【邪魔】(じゃま)について
何かを達成しようと努力している人にとって、それを妨げる予想外の出来事を「邪魔が入った」といいます。
本来「邪魔」という言葉は、釈尊の成道を妨げる悪魔を意味していました。釈尊は菩提樹の下で「悟りを得るまでこの座をたたない」という固い決意で坐禅をしました。すると、釈尊の心を乱そうと悪魔が現れました。釈尊はそれを退け、悟りを開かれました。
人間の苦悩の根本的原因は「無明(無知、迷い)」であると釈尊は悟られたのです。無知である為に迷い、迷った為に執着し、執着することで苦しむのだと明らかにしました。執着こそ邪魔です。
釈尊は悪魔を退けましたが、力尽くで排除したのではありませんでした。心の本質を見つめ、執着から解放されたとき悪魔は自らその姿を消しました。このように邪魔者は外から襲ってくるものではないのです。
2017年6月掲載
【覚悟】(かくご)について
一般に覚悟というとあらかじめ心構えをすることの意味で使われます。
また、「覚悟しろ」などという場合は、「観念すること」の意味でも使われます。
本来、「覚悟」とは眠りから覚めていること、目が覚めていることを意味しておりますが、「覚」も「悟」も「さとり」ということですから、迷いを去り、真理を体得する悟りを得ることを意味します。
2017年5月掲載
【行儀】(ぎょうぎ)について
そういえば最近、「行儀が悪いよ」と注意する人を見かけなくなりましたね。
どうですか?みんな行儀がよくなったのですかね。
いやいや、ながらスマホなんて行儀が悪いと思いますが、
注意してあげるのも親切だと思います。
2017年4月掲載
【諦める】(あきらめる)について
どうにかしようという気持ちを捨て去ることで消極的なマイナスイメージを色こくもっている言葉である。
この言葉は仏教起源のものである、こちらの方では最高のプラスイメージが与えられている。
「諦」(たい)は、「サッティヤ」など、「真実」を意味するサンスクリット語からの漢訳語。
したがって「諦める」は「真実を明らかに知る」「さとる」ということになります。
2017年3月掲載
【知足】(ちそく)について
南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領は、持続可能な発展と貧しい人々の貧困からの救済についてお話しになりました。 「私たちは発展するためでなく幸せになるために生まれてきました。人々はより多く消費するため働くことをやめません。消費が滞れば経済がマヒし、不況というお化けが姿を現します。」
『貧しい人とは、持たざる人ではなく、いくらあっても満足しない人だ』
環境問題の原因は私たちの社会のあり方であり、見直すべきは私たちの生き方であるのだと、ムヒカ氏は訴えられたのです。
2017年2月掲載
【無用の長物】(むようのちょうぶつ)について
「あっても役に立たず、かえってじゃまになるもの」を「無用の長物」といいます。
一般的には「長物」は「長すぎて役に立たないもの」と解釈されていますが、もともとは仏教の言葉で、「ちょうもつ」または「じょうもつ」と読みます。
修行者が持つことを許されている生活用具は、「百一物」といって、どれも各々一個ずつ蓄えることができるとされています。同じものが二つある場合など、必要のない余分なものを「長物」といい、持ってはいけないものとなるのです。
そこで、自分の身の回りを見てみると、「長物」ばかりなことに気がつきます。自分にとって必要のないものを手放していくことは、心がすっきりと軽くなることにつながっていきます。そして、怨みや怒りなど心の底に積もった塵も、「無用の長物」です。それらも、すっきりと手放して、心軽く生きてみたいものです。
2017年1月掲載
【金輪際】(こんりんざい)について
インドの古代、仏教の世界観では、虚空のなかに、風輪という空気の広大な層があり、その上に水輪という水のかたまりがあり、その上に金輪という大地があります。金輪の上に、私たちが住んでいる世界の大地や山、海が乗っています。金輪の底の底、水輪と金輪との境目を金輪際といいます。金輪際は、金輪の上に住んでいる私たちにとっては、「これより先がない」ぎりぎりの線で、物事の極限の意になりました。
また、大地が球体の上であることが認識されていない時代でしたので、平面に世界を考えていました。金輪の上に、九つの大山、四つの大陸や海が乗っています。すべての中心が須弥山(しゅみせん)があり、これがヒマラヤ山脈と考え、四つの大陸のうち南にある贍部洲(せんぶしゅう)が人間が住む大陸で、インド亜大陸と考えています。
『修証義』(しゅしょうぎ)の第五章のはじめにある「南閻浮」(なんえんぶ)は贍部洲のことです。
2016年12月掲載
【礼拝】(らいはい)について
仏教では、仏様や祖師に対し心からつつしみ敬うことをいいます。
人間がお互いに拝み合うことで、その人の生き方を認め合うという敬虔な姿なのではないでしょうか。私たちの考えがおよばないこと、自分たちではどうしようもないことがあれば、それでも祈らずにはおられないことがあります。今こうして生かされている私たち、それだけでも尊くありがたいことなのでは。そして自分の知らないところでも多くの方々に支えられ助けられて今があります。今があることに感謝する心を忘れない。そして自然と正しく手を合わす合掌、それが礼拝となって人々の心をつなぎ共に手を取り合って生きる世の中になってゆけるのではないでしょうか。
2016年11月掲載
【上品】(じょうぼん)について
通常、上品は「じょうひん」と読みますが仏教では「じょうぼん」と読みます。これはもともとは品位を表した言葉ではありませんでした。
観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というお経にでてくる仏教の信仰を表した言葉です。阿弥陀如来の極楽浄土について説かれたお経で、その中で極楽浄土へ生まれ変わる者を九種類に分けて説いたものの一つです。
上品とは生前、仏教の信仰が厚く、規律正しい生活を送った方をさす言葉です。生きているときの品位は死後にも影響すると考えられていました。
できることなら、信仰を持って心穏やかに、上品に生きたいものです。
2016年10月掲載
【柔軟】(じゅうなん)について
「セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう
どちらかがやわらかければだいじょうぶ
やわらかいこころをもちましょう」
という相田みつおさんの詩があります。
自分本位、個人化の進む現代には理不尽が事件などにあふれています。
ぶつかりっこする前に先ず相手をゆるす心を持ちましょう。
執着心を捨ててお互い思いやる助け合う柔らかい心を皆が持てば、もっともっと日々の暮らしや人生が楽しいものになるはずです。
2016年9月掲載
【空】(くう)について
空は(くう)、空っぽということです。自分の部屋にあれもこれもと詰め込みすぎてしまうと、身動きができなくなってしまいます。そんな時には、部屋の中にあるもの全部外に出してしまって、本当に必要な物から順番に入れなおすとすっきりした部屋になり、勉強や仕事もはかどります。私たちの頭の中や心も同じことで、詰め込みすぎると苦しくなることがあります。そんな時には空っぽにしてみる。息を吐き出すと自然にきれいな空気が体に良いものが入ってきます。
中々口で言うほど簡単なことではありませんが、それでも、いろいろなことで迷ったり悩んだとき、 「空っぽにする」という方法もあることを知っていれば、何か良い方向に進んでいけるきっかけを見つけることができるかもしれません。
2016年8月掲載
【生活】(せいかつ)について
就活(就職するための活動)、婚活(結婚相手探しの活動)、終活(人生の終わりを心置きなく迎えるための活動)。
どれも人が、しあわせになるための手法の一つとして重要な活動といえるかもしれない。
しかし、どの活動においても家族や周り、社会などからさせられた時には、しあわせになるどころか逆に不幸なこととなる。
どんな活動も自発的であることがたいせつである。
「生活」というと繰り返される日常を想起するが、終活や婚活のように「生」と「活」の二文字に分けてみれば、生きるという目的とそのための活動と読み取ることができる。
日常に慣れきってしまえば、生きるという目的を忘れてしまう。
今日という貴重な時間が無駄に費やされてしまう。
いま生きているという喜びやありがたさに、どんどん鈍感になって行く。
いのちは、当たり前にあるのではない。だから、昨日の繰り返しとしての今日にしてはならない。
一日一日を意識して大切に使う。
生きていることを再確認する。
生命を活性化する、これが生活。
2016年7月掲載
【三昧】(さんまい)について
野球三昧、釣り三昧などのように、○○三昧とは一つの事に一心不乱に打ち込んで熱中していることを表します。しかし本来「三昧」とはインドの古代サンスクリット語である「サマーディ」を音写したもので、心が統一された静かな状態を表す仏教語です。
私たちは常に心のどこかで勝敗や損得を気にしながら行動していることが多いように思います。そこでお釈迦様は右往左往して迷い続ける私たちに「制止」することの大切さを伝えました。「もうどこにも行く必要がない。ここにとどまりなさい。」と。
三昧とは「何かのために何かをする」という目的や手段を持たない静かな世界のことです。そして、それはまさにお釈迦様や道元禅師様が伝えられた、「坐禅」の世界そのものです。
坐禅をすることに目的や手段はありません。坐禅をすれば坐禅をするという目的は既に達成されているのです。もちろん勝ち負けや損得などの利己主義もありません。そこにこだわる必要も、とらわれる必要もないのです。
私たちには呼吸を整えて静かに坐る時間が必要だと思います。澄んだ心で、「自分」を忘れ、何かのためではなく、行為そのものになりきることに、私たちの本当の幸せと安らぎがあるのです。
2016年6月掲載
【無所得】(むしょとく)について
現在では、各個人が働いて得た金銭的報酬を所得といっています。したがって無所得とは収入がないということです。しかし仏教用語としての無所得は、見返りを求めない心のことをいいます。
みずから努力したならその結果がほしくなり、人のお役に立ったなら「ありがとう」のひと言がほしくなります。しかし、そのこだわりが返って新たな苦しみを引き起こしています。
期待した結果が得られなくても、努力した事実は消えません。「ありがとう」のひと言がなくても本当に人のお役に立ったなら、それでよいではありませんか。
見返りを求めて悩むより、努力したこと自体を喜べる人になりたい。なにごとにもこだわらず、今を丁寧に生きたいものです。
2016年5月掲載
【安穏】(あんのん)について
仏様の悟りは煩悩を整える知恵と物事を優しく包む慈悲の働きを持っています。
人生は波風を乗り越えて、そこで修行して知恵と慈悲が育ちます。
すると後ろめたさはなくなります。
そのように生きた時、老後もあの世も安穏です。
2016年4月掲載
【日日是好日】(にちにちこれこうじつ)について
歌手の藤巻亮太さんの曲名にもなっている言葉ですが、元々は1000年以上昔、中国の雲門禅師のお言葉として現在に伝わっています。
雲門禅師はある日、大勢の弟子たちに向かって
「十五日以前のことはさておき、これから十五日以後の心境を一言でのべなさい。」とたずねました。
弟子の誰も返答が出来ずにいると、雲門は自ら、即座に「日々是好日」と答えました。
NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」主人公の父武蔵は、幼少期に両親と別れ親戚をたらいまわしにされ苦労を重ねます。
結核のため若くしてこの世を去るのですが、家族との平凡なあたりまえの毎日が送れることの幸せをかみしめ、日々の暮らしをとても大切にする人でした。
生まれてから死ぬまでの迷いの人生をいかに生きるか、私たちに問いかけてくれるありがたい言葉です。
頭でわかろうとしても、さまざまな人生経験を通してしかわからない言葉だと思います。
2016年3月掲載
【ご縁】(ごえん)について
「この世に生まれて、いろいろ教えられ、みんなに出会って、まわりに助けられて、生かされていること。」
この世に生まれることは、いろいろな条件が重なり合った奇跡です。お釈迦さまは、なぜこのように生まれて、苦しみがあるのか。老と死があるからと、生まれるから、老いて死んでいく。と悟りました。生まれることが因(原因)で、死ぬことが縁(結果)であります。お釈迦さまの教えに出会い、多くの人々に出会い、この世には苦しみや悲しみも多くありますが、生きていく事は、自分1人で生きているのではなく、まわりの多くの人々に助けられて、生かされています。
道元禅師のお言葉に、「願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。」があります。願ってこの世この場所に生まれてきて、お釈迦さまの教えに出会ったことは、大変喜ばしいことであります。このように、奇跡に奇跡が重なることがご縁です。
2016年2月掲載
【平等】(びょうどう)について
国語の中に完全に溶け込み、仏教の気配すら感じられない言葉の中でも、実は、語源が仏教にあったという言葉は多いのです。
平等は、仏教でいう五つの智慧「五智」の一つに平等平智という智慧があります。これは真実を見、「すべての物事には、わけへだてなく大切にしなければならない尊い本性がそなわっている」ということを知る智慧であり、それによって全てを分けへだてなく見ようという慈悲の心を起こせば、これが平等心となります。
私、自身を省みれば、 子どもが複数いますが全ての子供に平等に接しているといえるかは疑問です。どの子も可愛いですが、はじめに生まれた子は、二十代の頃ですし、最後の子は四十代の頃です。私自身が変わっている以上、接し方も又、変わるでしょう。しかし、皆平等に接し様とする心が分けへだてない事なのではないでしょうか。
2016年1月掲載
【老婆心】(ろうばしん)について
老心と思ういいます。道元禅師は「父母の心なり」と。見返りを求めることのない、深い慈しみの心のことです。
老婆心は、老心・婆心ともいいます。私たちは、普段、必要以上にくどい親切心の意味に使っています。開祖道元禅師は、「典座(てんぞ)」と言う修行僧の食事を司る僧の心得などを示した「典座教訓」の中で、老心とは「父母の心なり」と言われています。
「自らの寒さを顧みず、自らの熱さを顧みず、子を蔭(おお)い子を覆(おお)う。」
親というものは、自らの寒いことも熱いことも忘れて、子供を熱さからかばい、寒さから守る。典座が釜の水をみるときも、穀物を扱う場合も、親が子供を育てる時のように慈しみ深く、真心を持って努めよと。
私たちは、これだけやってやったから、これぐらいのお返しは来るだろうとか、これぐらいは儲かるだろうとか、見返りを期待することがあります。道元禅師は、一途に他のもののことを思い精進することを老心、老婆心という言葉で示されています。
2015年12月掲載
【寿】(ことぶき)について
寿は「ことぶき」と読み「いのちながし」という意味でお祝いの言葉。寿福、寿安など熟語も多い。
長生きは、それだけでめでたいこと。
長寿の人には、長い人生経験の中で、積み重ねた知恵があります。長いということは、それ自体値打ちがあると、昔の人は考えました。
しかし、人間、自分が歳をとったことは、なかなか普段意識しないものです。
人は必ず歳をとります。そして、いくらあがいても、それを防ぐことは出来ません。それならば、豊かな心を持って良い歳の取り方をすればいいとは言っても、なかなか難しいものです。
私たちの周りには、うらやましいほどにはつらつとして輝いて見える、お年寄りが達がいます。そうした方々を敬い見習いながら、良い年を重ねていけるよう心がけることが大切でしょう。
一年一年と、さらに自分が豊かになっていくことを感じながら、人生を楽しみたい。一度の人生、悔いのない命の使い方をしていきたいものです。
江戸後期の儒学者、佐藤一斎が書かれた『言志晩録』の第六十則に「少にして学べば則ち壮にして為す有り、壮にして学べば則ち老いて衰えず、老いて学べば則ち死して朽ちず」(訳、生きている限り学べ、学べば必ず幸せになる)と、あります。
「生きる」というのは「学ぶ」ということ。そして命を大切に、自分を大切に、大事に歳を重ね、長く重ね続けていきましょう。
2015年11月掲載
【煩悩】(ぼんのう)について
除夜の鐘を百八鳴らされるのは、百八ある煩悩を滅するためとされます。百八の数え方はいろいろありますが、煩悩の根元は、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(物事の正しい道理を知らないこと)の三毒であるとされています。これに、慢(他人より勝っていると思う自己中心的な心)、疑(仏教の教えに対する疑い)。見(あやまった見方、邪見)を加えて六つの根本煩悩が説かれました。
現代において、子煩悩は自分の子どもをとてもかわいがることして使われます。良い意味に見えますが、他人から見ると自慢して子どもにとらわれていて、煩悩そのものです。
慢の中に、我慢があります。我慢するとは、耐え忍ぶ、辛抱すると良い意味で使われますが、自分がすぐれていると、おごりたかぶりわがままであることと、仏教では悪い意味で使われてきました。この世は、煩悩がなければ生きていけないのです。
2015年10月掲載
【喫茶】(きっさ)について
禅の公案に趙州喫茶去という話があります。
中国は唐の時代、趙州という禅僧がおられました。この方は誰が訪ねてきても「まあお茶でも召しあがれ」と言われたそうです。ある時、弟子の方がこう進言したそうです。「見ず知らずの人にまでに、用件をきかぬうちからお茶を奨めるのはどうでしょうか?」と。これを聞いて趙州和尚様は居間から彼を呼びました。彼が用件を聞くと「おお、よく来てくれた。お茶でも召し上がれ。」といわれたそうです。
日本では曹洞宗の瑩山禅師が「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と説かれております。これは日常茶飯事の中に禅の心があるという事です。禅宗によって茶が日本に紹介されて以来、喫茶の習慣は日本人の中へ深く浸透してきました。
今日でも茶道は盛んであり、茶道を習うものは、その精神が禅の精神であるとされております。無心に座して只お茶をいただく。一期一会の境地、これが喫茶の心でしょう。
2015年9月掲載
【無分別】(むふんべつ)について
一般的に、ものごとの善悪、正誤をわきまえて判断するとき分別があるといわれる。
一方、思慮がなく軽率なとき無分別といわれる。しかし、私たちの心に「わが身がかわいい」という思いがあるかぎり、善悪をわきまえたつもりが、実は自分の都合のよいように判断しただけかもしれない。
「わが身がかわいい」という思いをもとに自他を分け、多寡優劣を競うところに苦悩が生まれる。そうした苦悩の本質を明らかにして、沢木興道老師は「得は迷い、損は悟り」といわれた。皆が得ようとしている社会で損をしようとは分別がないように思われるが、この無分別こそ苦悩を除く唯一の智慧である。
2015年8月掲載
【醍醐味】(だいごみ)について
牛乳を精製していく過程で生まれてくる五つの味を「五味」(ごみ)、その最上のものを醍醐といいます。非常に濃厚な甘味で、薬用に用いられたことが、インドから伝えられた仏典に登場します。釈尊の説法の仕方が、五味のように次第にレベルが高くなってなったというたとえから、醍醐は、仏教の最上の教えを指しています。
醍醐味とは、単に楽しい、面白いと言う意味ではなく、物事の本当の面白さ、真髄を究(きわ)めていくことでしょう。
四五〇年続く、石垣の穴太衆(あのうしゅう)積みを伝える粟田純司さんは、インタビューの中で、「美しくあってこそ石垣、築くときの心構えは、石の声を聞くことです。ただ、今までこの仕事をやってきて、完璧だと思える石垣はできたことがありません。親父も全く同じことを言いながら亡くなりましたが。)と。
どんなに上達しても「もう、これでよし。」と言うことがないところに、人生の醍醐味があるのでしょう。
2015年7月掲載
【慈悲】(じひ)について
慈悲という言葉は仏教用語であることは誰しも理解できるでしょう。
特に「慈」という言葉をパソコンなどで変換するとき、この字のついた言葉も沢山の候補の単語が表記されます。
「慈」はいつくしみの心、「悲」は他者の苦しみに同情して、これを救おうとする思いやりを表します。分かりやすく言えば人が喜んでいるときは共に喜び、人が悲しんでいるときは共に悲しむことです。道元禅師様の教えで表せば「同事行」ともいえるでしょう。
また、この心を別の言葉で表すと四無量心ともいいます。それは四つのはかりしれない他の人々を利益し、救済につとめる心、「慈、悲、喜、捨」の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りへと導くことです。
「慈」とは生けるものに楽を与えること。「悲」と苦を抜くこと。「喜」とは他者をねたまないこと。「捨」とは好き嫌いによって差別しない。という意味があります。
来る2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。その大会の招致する時のプレゼンテーションで「おもてなし」という言葉が使われ話題となりました。この「おもてなし」という心使いも慈悲の実践のおつとめではないでしょうか。
日々の生活においても「慈悲」の心を常に保てればもっと平穏とした安楽の世界が待っていると私は信じます。
2015年6月掲載
【出世】(しゅっせ)について
昨今では「勝ち組」、昔は「末は博士か大臣か」などという表現があった。
世間一般においては、会社組織などで高い位に昇進する意味で用いられるが、出家して僧侶になることを「俗なる世間を出る」ので「出世」とか「出世間」という。
また「世間に出現する」という意味で「出世」を使う場合には、仏さまが衆生を救い導くためにこの世においでになることをいう。
2015年5月掲載
【大衆】(だいしゅ)について
一般的には、『たいしゅう』という読みですが、仏教用語では『だいしゅ』となります。
「大」=「多い」多衆の人ということです。仏教一般では、人数の多少なく一所に集まり、共に修行を励まし合う僧を大衆といいます。また説法を聴きに集まった人々、あるいは出家者たちの集まりを指すのです。
修行道場の心構えの一つに、大衆一如(だいしゅいちにょ)と示される言葉があります。「目的を同じくする者は、行ずること全てにおいて、ひとつになるよう心掛けなさい」というお示しです。例えば、禅修行での食事は、皆同じ作法によって行います。しかし作法や食べる速度は人によって異なります。早い人は少し気を遣って速度を遅く、また遅い人はなるべく早く食べるように心掛けるのです。しかしやはりまちまちになりますが、食事を終えるときは皆一緒にお唱えをして、お作法に則り食事を終えます。そこでは他人に愚痴を言わず、共に理解し励まし合う姿勢を大事にするのです。今の一般社会では、目的や利害が異なる様々な人の集まりを大衆としますが、もとの言葉の成り立ちは、慈悲の心を共に持ち合い励まし合う私たちを表現した言葉なのです。
2015年4月掲載
【心配】(しんぱい)について
臨済宗の高僧、山本玄峰老師は「心配」について、「人には親切、自分には辛切、法には深切であれ」と展開されています。特に法に深切、法つまり本当の生き方に対して、できるだけ深く心を配りなさいといわれます。
心配、心を配る、思いやりの心(気持ち)、そして優しさは、社会生活を営む上でとても大切なことであり、人と人とのかかわりにおいて欠かすことは出来ません。しかし、頭の中では理解していても、実際の行動に移すことは、なかなか難しいものです。まずは身近なところから、毎日の生活の中から始めることが大事なのです。自分にとってもっとも身近な日常というと、家族とのかかわり家庭のあり方でしょう。お互いが自然に、相手に対して細かく心配りをすることは、難しいかもしれません。自分としての心配りが、相手にとって大きなお世話になることもあるでしょう。だから、出来るだけ深く心を配ることが大切なのです。
心配とは、自分にも他人にも分け隔て無く心を配ってゆくことです。このように生きることが「本当の生き方」なのではないでしょうか。
2015年3月掲載
【奈落】(ならく)について
仏教では迷いの世界を六道という。奈落は六道のいちばん下、もっとも苦しいところ、すなわち地獄である。
六道のうち、最も高いところ、幸せの頂点が「有頂天」であるが、実は奈落から有頂天までの六道は凡夫の輪廻するところで、有頂天は常に危うく、奈落と隣り合っている。有頂天と奈落は上下の関係であるのではなく、隣接関係である。
人の上に立っていると、自分を誇り、人を見下すこともある。このように他人より自分が上に立っていると思っている人は、非常に危うい人生を生きている。現代に生きる人の学歴主義、出世観がこれである。
仏教徒の人生は、その立ち軸はくらべ合いの六道にあるのではなく、菩薩の四摂法・共生のせかいにあって、くらべ合いから離れた世界であるに他ならない。
2015年2月掲載
【我他彼此】(がたひし)について
我他彼此、それ自体は立場による呼び方の違いを表しているだけです。
でも、「対立する様子」という意味があるのは何故でしょうか?
物事には元々違いがあるのは当たり前なのですが、人はそこに我他や彼此、長短や大小、優劣や迷悟といった相対する見方(我他彼此の見解)を持ち込みます。
そして、その差や別の違いをとても気にし始めます。
それが度を越し誤解や偏見が生まれ、互いの対立にまで暴走したのがガタピシです。
詩人の金子みすゞさんは『私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のようにたくさんな唄は知らないよ。』と、万象の違いをうたい。
『鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。』と、ガタピシしない生き 方を詩に残しています。
我他彼此とは一面、対立の正体に気付き暴走を戒める言葉であるのかも知れません。
2015年1月掲載
【ご利益】(ごりやく)について
宝くじが当たる事や、お金が儲かる事でもなく、自分の思い通りに地位を獲得する事や、名声を手に入れる事でもありません。
今、私がこうして生活出来ている事が、ご利益を頂戴していることです。
自分では到底知ることの出来ない様々なご縁によって、生かされているのですから、一日一日を好き日であると感謝して生活してまいりましょう。
2014年12月掲載
【精進】(しょうじん)について
精進は仏教語でインドのサンスクリット語の「ヴィーリヤ」の訳である。努め励むこと、悟りを開くために精励すること、心身を清めること、仏門に入って宗教的な生活を送ることなどをいいます。
一般に、仏教が建前として肉食するのを禁じていたことから、後に魚や鳥、獣の肉を食べないことをも意味するようになりました。ここから精進料理といえば、一般に先祖の忌日などに食する、菜食料理を意味するようになったのでしょう。
最近では、精進料理がちょっとしたブームになっており、飽食時代ともいわれる現代社会のなかでは、ヘルシーでダイエットにも効果的な食事として、また栄養バランスのとれた健康食として、人気を集めているようです。
仏教でいう精進とは、正しい努力でなければなりません。仏教の根本精神は中道にあります。だから、努力のしすぎは仏教の精進とは異なるものです。現代の日本人は、競争、競争といった競争原理を前提に生きています。そんな日本人の仕事中毒的な働き方は、仏教の精進にはなりそうもないと思います。
仏教の精進は、身体にも心にも偏りのない、ゆったりとした努力の意味であります。
2014年11月掲載
【諦める】(あきらめる)について
どうにかしようという気持ちを捨て去ることで、消極的なマイナスイメージを色濃く持っている言葉である。
この言葉は仏教起源のものである。
「諦」(たい)は、「真実」を意味し、「諦める」『真実を明らかに知る』『さとり』ということになる。
2014年10月掲載
【万事休す】(ばんじきゅうす)について
今日では、「なすすべもなく、終わりだ」という悲観的な意味で使われている「万事休す」ですが、もともとは「休息万事(ばんじをきゅうそくす)」という禅の言葉が変化したものです。
「万事」とは、自分を取りまく環境や、自分自身のこだわりをいい、「休息する」とは、それらから離れることを意味しています。まわりの環境に心を惑わされず、持っているこだわりから離れると、私たちの心は落ち着き、安らかになります。
もうだめだ、万事休す、と思ったときこそ、万事を休息するときです。まわりに振り回されている自分から、そして頑なに持ち続けているこだわりからいったん離れてみると、案外そこに新しい道が見えてくるのではないでしょうか。
どんなときも、人生をあきらめず、そして心安らかに生きていきたいですね。
2014年9月掲載
【洗面(せんめん)】について
洗面は曹洞宗の御開山、道元禅師さまが、修行僧の生活規範として教えられ、一般の人々にも行われるようになりました。
毎朝、皆さんの顔は汚れてしまっているでしょうか?
洗面は顔が汚れているから洗うのではありません。顔を洗うという行いによって、心も洗うのです。
身体を清め、心も清め、全身を清浄にする事によって、行いも自ずから清らかなものになるのです。
皆様も毎朝、清らかで間違いのない正しい行いを願って顔を洗う洗面をして頂きたいと思います。
2014年8月掲載
【竹篦返し(しっぺがえし)】について
一般的にしっぺ返しは、何か仕打ちを受けたらすぐに仕返しする様、と解されています。でも本来は、目覚めるか否かという緊迫した一瞬の機微を表している訳ですね。
ところで、この竹篦返しが想定外の形で私たちに対して突きつけられているのは、皆さんすでにお感じのことと思います。
地球規模の気候変動による各地の自然災害は、その最たるものかも知れません。それだけではありません、科学や経済など人間の営みの分野に於いても、過信に対しては恩恵を上回る損害を突きつけています。
仕返しか目覚めへの契機か、受け取り方は人それぞれでしょう。しかし、いずれにしても今まで通りではいけないことは明白です。
竹篦が打ち込まれた今この時、まさに受け手の力量が問われます。ここで自分たちの利益のみを考えているようでは、窮地を脱するどころか後生に禍根を残すことにもなります。
心機を一転させる痛棒の意味を私たち一人ひとりが受けとめなければいけません。
2014年7月掲載
【有頂天】について
有頂天と言う語は得意の絶頂にいたったこととして使われる。しかし、それは世間的価値観(世間法)の小さい枠の中でのくらべ合いでの絶頂ということでもある。
有名大学に合格、一流会社に就職、課長、部長、社長、あるいは校長など「長」 と名のつくポストにいたったことを人々はよろこびとし、しあわせとする。
しかし、これらの肩書きを人生の栄光を意味する名誉の肩書きとして、この持ち物に執着するならば、まさに有頂天と言う最高の境地が地獄と言う暗い底辺の世界とひとつながりになる。
仏教の最高の安心(あんじん)は「天」でも「天国」でもない。そのような価値の上下によるランクから自己を解き放って苦の衆生と共に生きることが仏教の理想である菩薩生き方なのである。
有頂天は迷妄・苦に満ちた三界の絶頂ではあっても仏教ではない。
2014年6月掲載
【ありがとう】について
ありがたい
漢字で書くと「難有」と書きます。
「難がある」といっても決して欠陥品のことではありません。
、
仏教からきた言葉で、人として生まれ、仏様の教えに出会うことは、有ることが難しい、ありえない、めったにない「その、めったにないことに出会えたことに、感謝します」という意味です。
そこから感謝の言葉として「ありがとう」となりました。
意味を深く考えるととても良い言葉に気づきます。
2014年5月掲載
【普請】(ふしん)について
「あまねく請う」ということで、お寺じゅうのお坊さんを集め、共同でなんらかの仕事をしてもらうことを意味した。
やがて「道普請」などといって、公共の道や橋を作ったり、なおしたりするのに村人全員が協力して勤労奉仕のことを意味するようになった。
特に村では「家普請」といって個人が家を建てたりするときも村をあげて協力することを「普請」といった。
「共生」する為の人の知恵から生まれた言葉ではないかと思います
2014年4月掲載
【挨拶】(あいさつ)について
挨拶は、もともと「一挨一拶(いちあいいっさつ)」などと用いられた禅の言葉です。師匠が弟子の悟り具合をみたり、修行者同士がお互いの悟りの深さを推し量るため、声をかけたり問答することをいいました。
お互い悟りの深さを推し量るのですから、挨拶は真剣そのもので、お互いに切磋琢磨する大切な修行の一つでした。命から命へ問いかける言葉が挨拶だといってもよいでしょう。
ひるがえってみると、私たちの「あいさつ」はおざなりになっていないでしょうか。毎日会う家族や友達、仕事仲間に形だけの「あいさつ」をしていないでしょうか。
挨拶は、自分の心を相手に伝える言葉であると同時に、相手の心を思いやる言葉です。今日も私は元気にやっているよ、あなたは元気にやっているかい? 「おはよう」や「こんにちは」の一言の中には、たくさんの気持ちが詰まっています。
今日も一日、命から命へ、心をこめてあいさつを!
2014年3月掲載
【無造作】(むぞうさ)について
世間的な使い方では、「造作」は、1、しかた・やり方・手段、2、手間がかかること・手数・めんどう、3、もてなし・ごちそう、などの意味に使い、「無造作」は、1、慎重にではなく、2、簡単に、3、気軽に取り扱う、などの意味として使われている。
しかし、仏教、特に禅では、この2つの語はまったく違う意味を持つ。
まず「造作」とは、凡夫の願望で煩悩によってつくられた世界、すなわち人間の自己都合に合わせてつくられた世界のことである。
「無造作」とは、そのような凡夫の煩悩・妄想が脱け落ち、般若心経にいう「無ケイ礙(むけいげ)」の世界、すなわち生老病死の束縛を脱したところの「この生死(しょうじ)はすなわち仏のおんいのちなり」の生き方を指す言葉であり、きわめて重要な意味をもつ仏教語である。
造作は「有為(うい)」に、無造作は「無為(むい)」に対応し、共通の意味をもつ語である。
2014年2月掲載
【檀那】(だんな)について
「檀那」と「旦那」読み方は同じですが、漢字にしますとこの様に二通りになります。さして使い方に違いはないのですが「檀那」とは古くは貴人の敬称として使われ、一方のこの「旦那」とは目下の者が目上の者を呼びかける時に用いています。
又檀家とは、決めた寺院に葬儀や年忌法要、墓参りなど仏事の全てを任せた間柄となり信者の方々をそう呼びます。布施等でお寺を支えることも大切な責任の一つとなっていきます。この布施をする人のことをダンパティと梵語でいいますが、感謝の気持ちで施を供えることは功徳を積むことに通じることでもありましょう。
現代においては旦那という字が良く使われておりますが、お寺の行事など積極的に参加して世話をし、又社会的にも人望のある人たちを旦那衆と呼んでおりますが最近においてはあまり使われることも少なくなりました。
2014年1月掲載
【不思議】(ふしぎ)について
「世にも不思議な出来事だ」などと言われるように、「不思議」という言葉は一般的に「奇妙な」「思いもかけない」という意味で使われる言葉です。
古代インドのサンスクリット語が中国に伝えられた際、この言葉は「不可思議」と訳されました。「思議(しぎ)すべからず」と読みますから、単に「奇妙な」といった意味ではなく、私たち人間の考え、思慮分別の及ばないところ、言語では表現できない仏の智慧、菩薩の慈悲などの働きを形容する言葉として用いられました。それが今では「不思議」と略され、転じて常識では理解できないことの意味に用いられるようになったのです。
人として、そして、両親の子として生まれ育ち、今ここに、このように存在することの縁はとてつもなく奥深く、説明などできるものではありません。幸せな人も、今そのように感じることのできない人にも、この生はまさしく不可思議そのものです。ならば、この不可思議な縁をどう引き受け、どう生かし、どう豊かにしていくかということこそが、私たちの一大テーマであります。お釈迦様はまさに、そのことを私たちに問いつづけているのです。
2014年12月掲載
【一大事】(いちだいじ)について
もとは、「一大事因縁」として用いられていた仏教の言葉で、『法華経』というお経の中に、「仏さまは、一大事因縁によって世に出現された」とあります。
それは、「人々を悟りへと教え導くという偉大な目的と仕事のために、仏さまがこの世に現れた」ということです。つまり、仏さまにとっての「一大事」とは、「人々を悟りへと教え導く」ことであり、「因縁」とは仏さまの教えと私たちが「縁」で繋がることを意味しています。
もし、私たちが自分の人生を変えるほどの仏さまの教えに出会えたならば、それはまさに「一大事因縁」と言えるでしょう。
しかしながら、何もせずに待っているだけでは、仏さまの教えに出会うことは難しいようです。自らも仏さまの教えを求め続けていくことが大切です。仏さまが私たちを教え導きたいと誓う慈悲の心と、私たちが仏さまの教えを求め願う心が、お互いに引き合って「一大事因縁」が生ずるのです。
2013年11月掲載
【六根清淨】(ろっこんしょうじょう)について
身体的感覚の、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根は、人間の持っている感覚です。これらの働きにより外と繋がり、心ともいえる、意根という内面的な感覚によって、楽しさ、苦しさ、善さ、悪さなどを知覚します。
いやなことを聞いたり見たりする、考えたりする。そんな汚れてしまった六根をキレイにする、その修行のかけ声が六根清淨、どっこいしょ です。
かけ声があるのは、日本語だけのようです。英語にも、中国語にも有りません。
日々の行動を、修行とし「どっこいしょ」とかけ声かけて、がんばりましょう。
2013年10月掲載
【我慢】(がまん)について
仏教語としての「我慢」は自己の中に潜む慢心を指します。
ですから世間では「何事も我慢が大事」と言われても、仏教的には制御すべき厄介なものなんですね。
一般で言ういわゆるガマンは、仏教語の【忍辱(にんにく)】「耐え忍ぶこと」にあたります。
忍辱は苦難を耐え忍び心を平穏に保つことを言い、菩薩行の一つに数えられます。
お釈迦様最後の教え「遺教(ゆいきょう)経」に「もし怒り恨む心を放置すれば当然のこと修行を妨げその功徳も失われる。
だからこそ忍辱行は苦行や戒を持する修行も及ばない勝れた修行といえるのです」とお示しです。
ひとたび怒り憤る心が起これば猛火よりも甚だしい。故に付け入る隙を与えないよう常に防護しなさい、とも示されます。
夫婦の諍いから国家間の争いまで、出火原因は些細な事でも鎮火させるにはかなりの労力が要ることは身に覚えのあるところです。
お釈迦様は「たとえ誰かがあなたの身を引き裂こうとも、心を平穏に保ち、怒り恨む心を起こしてはならない」と忍辱行の重要さを説かれます。
実行はとても難しそうですが「何事も忍辱が大事」ということは伝わって参ります。
2013年9月掲載
【内緒(内証)】(ないしょ)について
心の内で悟ること、心の内の悟りを内証といいます。
人の内証について他の人が外からはうかがい知れない事から秘密のことを指す言葉として使われるようになりました。
人は自分の悪い事を秘密にして人に知られないようにと思いますが、悪い事は秘密にしてもいつかは知られてしまいます。反対に良い事をすると人に知って欲しい。そして褒めてほしいと思いますが、そういう時程人にはなかなか知ってもらえません。
良い事をしても人に知られないようにする事が良いのです。仏様が全て見ていて下さいますから。
日々の生活の中では、悪い事が表に現れ、良い事は隠れているので、どうしても様々な争いや喧嘩が起きてしまいます。
一見嫌なことを言ったり、する人が、実は自分の評判や、損得を考えない思いやりのある人だということもあります。
みんな仏さまのやさしい心を持っていますが、それは外からはなかなか解りにくいのです。
本当はみんな仏さま!でもそれはないしょ!
2013年8月掲載
【縁起】(えんぎ)について
仏教の基本的(お釈迦さまの御教え)な教えである。物事が起きるには「原因」があれば「結果」が出てくると思いがちですが、この「因」と「果」の間で働くのが『縁』である。
良い種を植えるだけで良い実りを得られるでしょうか。良い種を植え、水をやり、草を取り、陽の恵み・お陰を得て良い実りを得ることができます。
今私達は、『人生』の「縁」の毎日を勤めています。良い実りを得るために!
受けた御恩は「おかげさま」という言葉とともに深く心に刻み、人に与えた恩は水に書く文字のように自分の心にとどめない、こういう人になりたいと思います。
2013年7月掲載
【お蔭さま】(おかげさま)について
人生にとって出逢いはとても大切です。どのような人に出逢ったか、またその出逢いから何を学んだかということで私の人生がつくられたとも言えます。
良い出逢いもあります。悪い出逢いもあります。しあわせになった出逢いもあり、憎しみの出逢いもあったでしょう。
しかし、受けた御恩をしみじみと心に感じることのできる人は、とてもしあわせな人生であったと言えます。親、先生、友人、夫、妻との出逢いに感謝できる人も、しあわせな人生であったと思います。受けた恩は岩に刻んで忘れない人は心の豊かな人ですが、憎しみを岩に刻む人はとても不幸な人です。おかげさまという言葉も、どうやら2つの使い方があるようです。あの人のおかけで今の自分がある、ありがたいと思うときの「おかげさま」、あいつのおかげで私は不幸になった、あるいは誰のおかげと思っているか、恩知らずめと恩を押し売りする場合。
受けた御恩は「おかげさま」という言葉とともに深く心に刻み、人に与えた恩は水に書く文字のように自分の心にとどめない、こういう人になりたいと思います。
2013年6月掲載
【玄関】(げんかん)について
悟りの境地に到る大切な関所・場所。昔、中国の禅宗寺院で、寺の入り口に玄関の二字を額に書いて掛けて置き、禅院の性格を内外に表明し、おたがい修道心の喚起に努めたことから、禅院の客処の入口を玄関と名づけるにいたった。日本に伝わったのは鎌倉時代である。(禅学大辞典より)
玄関では「いってきます」と今日一日の始まりがあり「おつかれさま」と迎えていただける場所です。また様々な方々との出会いが、始まるところでもあります。
拙僧のいる寺の玄関には、尊敬する老師から玄関に因んでの揮毫(きごう)により「関機、前に在り」(かんきぜんにあり)と書かれた衝立があります。
その意味は「関わるものすべては、まず自分の前にある」「嫌なものも目をそむけず、まずうけいれてみなさい」との厳しい言葉でした。
玄関は本来そんな覚悟も必要なところなのでしょう。それは、お寺での生活のみならず皆さまのお家でも同じ事でしょう。ですから玄関はいつもきれいにし、履物はそろえておくことが肝要となるのです。それが自他共に心を調える事にも繋がり、人々の最善な関係を築くきっかけとも成るのです。
2013年5月掲載
【無事】(ぶじ)について
仏教での無事は、こだわりなき障り(さわり)なき状態をいいます。
私たちは何事もない日常を望みますが、世の中は自分の思い通りには動かず日々変化をします。
何もないということはあり得なく、もしそうであれば世の中は空虚なものになってしまうことでしょう。
「日々是好日」という禅の言葉があります。単なる日々の無事を願う言葉ではなく、たとえ思うように運ばない毎日でも、愚痴らずへこまず、前向きに大切に自分が出来る範囲内で、今この一時・一瞬を精一杯生き抜く事への励ましのお示しです。
この思いが、きっと私たちを無事へと導いてくださいます。
2013年4月掲載
【安心】(あんじん)について
一般的な読みは「あんしん」ですが、仏教語では「あんじん」と読みます。
仏法によって心が安らぎをうること。心を一点に止め、定着させること。本性に安住して身心が安定不動なること。(禅学大辞典より)
この世は「なかなか自分の思い通りにならない」ことが多くあります。しかしその反面、楽しく思うこともいっぱいあるはずです。
お釈迦さまは、人が生きていく中で、思い悩む原因を究明し、その原因を取り除く方法を一心に考えました。それがお経となり、また禅の教えとなって皆に伝わり安心を与える手立てとなりました。
私たちは自らの目的などが達成できずに、思い悩む時など「四苦八苦」(しくはっく)という言葉を使いますが、これも仏教の言葉です。ご存じでしたか?
お釈迦さまは、「生・老・病・死」(しょう・ろう・びょう・し)は、誰もが思い通りにならない根本的な不安なことであるといわれます。そして、たとえ愛しく親しい者とも別れなければならない-愛別離苦(あいべつりく)・怨み憎んでいる者に会う-怨憎会苦(おんぞうえく)・求める物事が得られない-求不得苦(ぐふとっく)・五蘊(人間の肉体と精神)が思うようにならないこと-五蘊盛苦(ごうんじょうく)が合わされて「四苦八苦」といいました。
こうなると、生きているうち全てが苦しみと考えてしまい、不安に思うかもしれません。
しかし私たちが、生きることの本質は、安定は無くすべての物事は移り変わるものです。それを知った人には、大きな勇気が生まれるのではないでしょうか。「すべては変わる」ということは「すべてが変えられる」ということです。お釈迦さんは、自分の未来は自分自身により還ることが出来ると説いておられます。人は運命を変えることが出来るから生き甲斐があるのです。まず「自分の思い通りにならない」と嘆くのではなく、変化に合わせて自分も変わればいいのです。変わることを恐れているうちは、不安から開放されず、自由と安らぎを得られません。
安心は、人や環境からいただくこともありますが、まずひとりひとりが安心を与える私たちでありたいと願います。