正法眼蔵弁道話より
「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿ノク菩提を証するに、最上無為の妙術あり。・・すなわち自受用三昧、その標準なり。・・端坐参禅を正門とせり。この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」
道元さまは若き頃比叡山にて修行中「本来本法性 天然自性身」(人は生まれながら仏である。それならば何故に悟りを求めて修行するのか。)という「本覚思想」に疑問をいだき、ついに山を下り、正師を求めて中国に渡り、一生の師天童山景徳寺の如浄禅師さまに相見して、この疑問を解かれ悟りを得られました。帰国後その教えを日本に広めようと決意され、日本における曹洞宗立教開宗の宣言書というべきがこの「弁道話」であります。
ところで曹洞宗は単伝の仏法と申しまして、師匠から弟子へと脈々と受け継がれ、お釈迦さまから達磨さまへ、さらに如浄さまから道元さまへと、インド、中国、日本へと西天東地嫡々相承して現在に至っているのであります。そして諸仏如来、代々の仏さまが伝え来たった阿ノク菩提は自受用三昧であります。阿ノク菩提とは阿ノク多羅三藐菩提ともいい、阿は(無)ノク多羅は(上)三は(正)藐は(等)菩提は(覚)を意味し、阿ノク多羅三藐菩提という梵語は無上正等覚つまり「悟り」を意味する言葉であります。この「悟り」は仏智を得ることでありまして、仏智には四つの智慧があります。それは大円鏡智(鏡の如き智)平等性智(平等の慈悲の智)妙観察智(真理を観察する智)成所作智(一切行が仏行となる智)であります。
その阿ノク菩提すなわち「悟り」とは自受用三昧であります。自受用三昧とは悟りを自ら証悟し、自ら受用し体験し体現することであります。つまりお釈迦さまから嫡々相承された正伝の仏法を、自己の生活の全てに実践体顕する正門は坐禅であると説かれました。
この妙法、仏性は誰にも生まれながらにそなわっているけれども、「修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」でありまして、修証一如、修証一等、修に重点をおいた実践の仏法が道元さまの説かれるところであります。「仏教」と言わず「仏道」というたのはこのことであります。行持道環という言葉がありますが行持とは釈尊(お釈迦さま)の説き示された教えに従って而今(只今)を生きることであります。仏教には発心、修行、菩提、涅槃という悟りへの段階があるように理解される向きがありますが、道元さまは発心、修行、菩提、涅槃は全て「悟り」であると説かれ、行持道環と説かれたのであります。
心というものは目に見ることが出来ません。「行動は心の窓」ともいいます。その人の心は行動に現れます。つまり心と行動とは切り離せないのであります。「身心一如」とはこのことをいい、「修証一等」もこのことをいいます。「同修同証」という言葉があります。それはお釈迦さまがなされ、道元ざまがなされた修行を私たちも同じく行うことによって、同じ「悟り」が得られるということであります。ここに曹洞宗が儀式を重んじ、形を重んじ、修行を重んじる理由があるのであります。大本山永平寺や大本山総持寺において雲水、修行僧達が脈々として七百年間、同じ形の修行をするのも「同修同証」を重んじるからであります。そして「悟り」にいたる正門は正しく坐禅をすることであります。その端坐参禅の時に真実の自己を見つめ、とらわれを離れ、空の境地になり、その結果日常生活においても「平常心是道」の境地になるのであります。例えば農家の皆さんが温室で真剣に菊を作るのも正しい坐禅の境地でなければなりません。行禅と申します。人間いつかは必ず死を迎えなければなりません。それで悔いなき人生を送るためには、「現在を如何に生きるか」ということが大切になるのであります。如何に生きるかということを究めるのが道元さまが説きつづけられた一大テーマでありました。正法眼蔵行持の巻に「この一日の身命は尊ぶべき身命なり。・・一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日は、をしむべき重宝なり。」とあります。この一日一瞬は繰り返すことの出来ない一期一会であります。かけがえのない人生を仏の「真心」で生きようではありませんか。只管打坐の境地で生きようではありませんか。
(合掌)
| 前のお言葉 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 |