正法眼蔵より
「不染汚といふは平常心なり」
(正法眼蔵神通の巻より)
「古仏心なり、平常心なり、三界一心 なり」
(正法眼蔵身心学道の巻より)
「南泉しめしていはく、平常心これ道なりと」
(正法眼蔵仏向上事の巻きより)
「始起有の有にあらず平常心是道なりと」
(正法眼蔵仏性の巻より)
今年もまた、プロ野球のペナントレースの行方に一喜一憂する季節が巡ってまいります。特に今年は多くの日本人の野球選手がアメリカでプレーをしています。プロ野球はいうまでもなく点とりゲームです。勝敗に拘るなと言っても野球ファンにとってはそれは無理かも知れません。そして勝敗の行方を左右する大切な鍵を握るのが押えの投手でしょう。味方のチームのピンチにマウンドへのぼり、そのピンチを最小限に防ぐというのは並の神経の人ではつとまりません。
一九七九年明大からドラフト外で巨人球団にピッチャーとして入団し、後に西武球団の押えのエースとして活躍し、通算十七年間マウンドに立ち続けた鹿取という選手がいました。彼は二百十余セーブポイントをあげました。つまり大変な活躍をしたということです。大変すばらしい火消し役を果たしたということです。
当時彼になぜこのように長く活躍できたのか尋ねたところ「別段ない。常に自分の体調を正しく保ち、自分に課せられたことをちゃんとやることです。何も余分なことを考えずに球を投げるだけです。相手をおさえようという意識が強すぎるとだめです。そして自分を大切にすることです。身体も心も」とひょうひょうと答えたそうです。勝つといえば相手に勝つのではなく自分に勝つということです。今の因縁を懸命に生きるということです。昔中国の趙州和尚が師匠の南泉和尚に人の生き方を尋ねました南泉和尚は「平常心是道」と答えました。汚れなくとらわれなく平常の心で生きるということでしょう。
野球というのはいうまでもなく相手と勝敗を争うゲームです。しかし、私は彼の投手としての姿の中に、人生の生き方を教えてくれているように思えました。
平常心とは善悪を思わず、是非を論じない日常の喫茶喫飯の平常坦然の心をいい、汚れの無い不染汚の心をいうのであります。悟りを開かれた仏々祖々、多くの仏さまはこの平常心を保ち続けておられました。道元さまが古仏と言われる古佛の一人は南泉普願禅師のことで、禅師に対する尊敬の念が「古仏」という言葉になったのであります。
三界とは欲界、色界、無色界のことであり、どの世界も欲に支配され、縛られやすいのであります。これはすべて心が問題であり、「心こそ心迷わす心なり」であります。拘り迷いの心が己の心を迷わすのであります。迷いの心が迷いの行動を起こさせるのであります。平常心といいますが、それは「こころ」だけの問題ではありません。身心ともに平常こそ仏道であります。起つ、座る、泣く、笑う、食べる、眠る、これら一々が平常心是道でなければなりません。般若心経に無ケ礙ということばがあります。これは「心にケイ礙無し、ケイ礙無きが故に恐怖なし」ということであり、心に拘りが無ければ、恐れるものは何もないということであります。
剣聖宮本武蔵の武道の奥義を説いた「五輪書」によれば武蔵は生涯六十余回試合をしたが一度も破れたことがなかったといいます。この書には「兵法の道においては、心の持ち方は、平常の心と同じでなければならない。ふだんであれ、戦闘のときであれ、いつも変わりなく、心を広く、まっすぐにし、むやみに緊張せず、またすこしもたるむことなく、心を偏らせてはならず、心を中道におき、また心を静かにたゆたわせ、そのたゆとう心を一瞬もとどめてはならぬ。」とあります。しかし、如何に剣聖武蔵といえども日常の心身の鍛錬は入一倍であったといわれております。日常の修練こそ人間に心のゆとりを与え、平常心を保たせるのであります。道元禅師も瑩山禅師も平常心を大切にして只管打坐を正門とすると説いておられます。身心脱落、脱落身心であり、平常心是道であります。
(合掌)
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