正法眼蔵山水経の巻
「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。而今の活計なり。朕兆未崩の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。順風の妙功、さだめて山より透脱するなり。」
道元さまがお示しになった正法眼蔵九十五巻の中で経のつく巻はこの山水経以外にはありません。道元さまはこの巻を仁治元年十月十八日、興聖宝林寺において修行僧達にお説きになりました。現在で申せば十一月、晩秋の頃でしょうか。
辺りの山々は紅葉し、渓川の流れはあくまで清く澄み、まさに一幅の山水画の風情であったと思われます。このような情景をご覧になりながら、道元さまはこの「山水経」をお説きになりました。道元さま四十一歳の時であります。
この山水経との姉妹篇ともいうべき巻に渓声山色の巻があります。この中で道元さまは
「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」
と山水の功徳を詠っておられます。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿であるということで、これは宋の蘇東坡居士の詩を思い浮かべられて詠まれた詩でありましょう。
蘇東披居士の詩は
「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 夜来八萬四千偈 他日如何挙似人」
であります。谷川の水の流れる音も仏の声であり、姿であります。清浄身とは法身の仏さまということであり、法をもって身とする仏さまであります。それが山であり川であるというのであります。
さて、前置きが長くなりましたがこの巻の冒頭の一節こそ道元さまが「山水経」で説かんとされたまとめであり、最も大切な一節であります。特に「而今の山水は、古仏の道現成なり」の一句こそ全てであります。その而今とは(にこん)と読み、単にいわゆる「今」ではなく、すでに触れた有時の巻で問題とされた而今であります。つまり無限の過去から現在に到る今であり、永遠の未来をひっくるめた今であります。時間空間をあげて而今の他に何もない、それは無限の過去を経過してきた存在であり、同時に無限の未来を将来する存在でもあります。時間は空間をはなれては存在しない。また、空間のなき時間も有り得ないのであります。それで時間といっても、空間といっても、自己といっても全く同一物であり、これを「而今」という言葉で言い表しているのであります。二千五百年前にお釈迦様がインドで法を説き、七百余年前道元禅師が法を説かれましたが、それが脈々として現在にあるのであります。眼前の山水も而今なる山水として真理の現成であり、仏さまやお祖師さまの仏法の現成であります。山も水もあるがままにあるべきようにあって、さまざまな姿を現しているのであります。このことが「古仏の道現成なり、ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり」であり、山は山、水は水で究尽の功徳を成しており、山は三世十法尽くしており、水は全宇宙を尽くしているのであります。悟りの姿であります。本来の自己、悟りの相であります。
それはこの世界の成立以前の消息であって、それが今も生きてはたらいているのであります。万物の兆しもない、いにしえからのことであり、その現成は古今を貫くものであります。而今であります。
山水は一大経巻そのものであり真理そのものであります。悟りを体現した仏の眼に映ずる山水、仏心に映ずる山水であります。諸法実相であります。それは山は山として高く広く、水は水としてすみわたって清く、本来のはたらきを現成したもので、一つ一つが宇宙の実相、真理を物語る究尽の功徳を現成しているのであります。ここに今一度道元さまのお詩を紹介させていただきます。
「峯の色 谷のひびきもみなながら
わが釈迦牟尼の 声と姿と」
(合掌)
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