正法眼蔵法華転法華の巻より
「心迷法華転 心悟転法華」
(心迷えば法華に転ぜられ 心悟れば法華を転ず)
これは禅宗第六祖であります慧能禅師の言葉であります。そしてこの巻は仁治二年、道元さま四十一歳の時興聖寺において書かれたものであります。この巻の法華転法華という題名は心迷法華転、心悟転法華からとられたのであります。そして道元さまはこの巻でも「悟り」とはということについて説かれたのであります。そして慧能禅師の言葉がこの巻を通じて下敷になっているのであります。
さてこの「法華」とはものごとの真実の現れ、ものごとのありのままの姿であり、そしてそのはたらきのことであり「真理」そのもののことであります。それはその中に全てを包含しているのでありまして、善も悪も仏も衆生も時間も空聞も含んであるのであります。私たちが法華経というときはこの真理を説いた最高の教えということであります。道元さまはこの法華経をよく読んでおられたので、正法眼蔵は法華経よりの引用が多く見られます。道元さまは大宇宙の真理を悟るにあたり法華経の影響を強く受けられました。しかしこの巻でいう法華は法華経という経で説かれた大宇宙の真理であり、したがって一つの経という教えではなく、実際の真実の相のことであります。それを真如実相とも言います。
次にここで「心」ということにつきましては迷いもすれば悟りもするという「心」であります。この場合「心」が先か「行動」が先かということは問題でありますが、道元さまは道心の巻で「仏道を求むるには、まづ道心をさきとすべし」と説かれました。つまり「心」が先とも受け取れます。しかし道元さまはもともとこの「心」と「行動」との後先を考えておられた訳ではありません。心には必ずなんらかの行動が付随するものでありますし、その逆に行動から心が起こることもあります。つまり心と行動とは不離一体のものであります。また三界唯一心の巻では心と存在、心と全宇宙との関係について次のように説いておられます。
三界とは欲界・色界・無色界のことであり、全宇宙を意味しているのであります。そして三界唯一心とは全宇宙、全存在は唯一心であるということであり、一如のものであり一つであるということであります。即ち全宇宙のあらゆる現象は唯一心の現れだしたものであり、全存在は実在性のないものであるということであります。それを「心外無別法」と言ったのであり、心と宇宙とは一如であります。
私たちが認識し存在していると感じている世界は所詮私たちの心が、有ると認識しているにすぎないのであり、私たちの心を離れては存在するものではないのであります。これは私たちが悩み苦しむこの世界も心がなせるもの、心のはたらきによって引き起こされるものであります。この心の持ち方次第で私たちはこの苦しみからのがれ、楽しみの世界を実現することも出来るのであります。この心を「心性」と言います。心は本来仏となるべき「如来蔵心」をそなえており、これを真心といい、自性清浄心ともいいます。その逆に煩悩に汚された心、迷いの心を妄心といいます。そして迷いも悟りもどちらも宇宙の真理ではあります。
「転」とは転ずることと転ぜらるることの、つまり能動と受動との二つの意味があります。そして転法華というときは仏教の真理を説き語ることであり、能動の意味であり、自分が宇宙の真理を転開することであります。これは悟りの心であり「心悟転法華」であります。一方「心迷法華転」は、心が迷えば法華に転ぜられるということであります。この心は自己の心性でものごとをとらえ、執着するから全てのものごとが欲望、煩悩のとりことなってしまうのであります。
ものごとはありのままの真理の相、つまり法華として現成しているのでありますから、無性を徹見し体現するならば、つまり欲を離れ、執着を離れ、空の境地に生きるならば法華を転ずることになるのであります。法華が法華を転ずるということであります。真理と自己が円融一体化するのであります。
(合掌)
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