正法眼蔵道心の巻より
「仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。」
「わがこころをさきとせざれ、仏のとかせたまひたるのりをさきとすべし」
「法のためには、身をもいのちをも、おしまざるべし。」
「つぎには、ふかく仏法僧三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。」
この巻は道元さまがいつ説かれたのか明確ではありません。大変短い巻でありますが仏教者にとって仏道を求むる心の重要性について説かれた巻であります。
この場合「心」が先か「行動」が先かということは問題でありますが、道元さまはこの巻では「仏道を求むるには、まづ道心をさきとすべし」と説かれました。つまり「心」が先とも受け取れます。しかし道元さまはもともとこの「心」と「行動」との後先を考えておられた訳ではありません。心には必ずなんらかの行動が付随するものでありますし、その逆に行動から心が起こることもあります。つまり心と行動とは不離一体のものであります。
さて、道心とは仏道を求める心のことでありまして、菩提心とも申します。仏道修行を志す者はこの道心を前提といたします。ところがこの道心を持っているという人に真実の道心がそなわっていなかったり、その逆に真の道心をそなえているのにそうは見えない人もいます。しかし、光明の巻においてお話しいたしましたように、真の道心をそなえている人はどこか違うものであります。道心は悟りを求める心でもあります。それは自己が悟りを得たからといって、もうそれで良いというものではなく、生涯が道心の連続であります。終わり無き修行であります。それは横目をふらずただひたすらに仏さまをうやまい、その説かれた法を先として、昼夜つねに悟りを求める心を保ち続けることであります。法のためには身命をもなげうつ覚悟が必要であります。
仏道を求め、悟りを求めるものはまず仏法僧の三宝を敬い奉るべきであります。これは仏教徒にとっての第一に守るべきことであります。どの様な境遇に生まれようともこれは例外なく守るべきことであります。そして寝ても覚めても南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧と唱え奉るべきであります。この心を片時たりとも忘れてはなりません。
道心という心と南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧とお唱えする行動とは不離一体でなければなりません。例えば行動があって、心が無ければこれもなにもなりません。空念仏という言葉がありますが、それではなにもなりません。その逆も、また言えましょう。
人間は今生が終わり、次の生に生まれかわる間に中有というものが在るということが、言われているのでありますが、そのことを道元さまはこの巻きに引用されておられます。人間が死んでからのことを述べておられる方は少ないのでありますが、道元さまはそれをこの巻で説いておられます。「中有ということあり」という言葉がそれでありまして、このことは正法眼蔵のなかでも大変特異な巻であります。
(合掌)
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