典座教訓より
「如何なるか是れ文字」
「一二三四五」
「如何なるか是れ弁道」
「偏界曽て蔵さず」
道元さまが真実の仏法を求めて宋の国に渡られたのは、貞応二年(一二二三)南宋の嘉定十六年、道元さまが二十四歳の年でありました。当時北宋が衰え、都を長安から臨安に移した時代でありました。道元さまは博多の港を出帆し、一路南支那海を横断して、明州を目指したのは三月下句のことでありました。当時は航海といっても命がけであり、まさに風まかせ、運を天に任せてのものでありました。幸い十数日で明州寧波に到着することができました。しかし、道元さまには天童山への上山が授戒の問題と安居中という時期の問題等で許可が下りず、やむなく船中にとどまることになりました。五月のある日の夕方、道元さまがとどめおかれたその船に、禅宗五山の一つ阿育王山で食事を司る役目の僧が訪ねてまいりました。この役目のことを典座と申します。この僧は年六十歳程であり、当時としてはかなりの老人でありました。阿育王山はそこから二十キロ程のところにありました。
ところで出会いこそ、いのちと申しますが、この老典座和尚との出合が道元さまをして仏典、祖録などによる理論理屈による仏教を学ぶことが第一との自己の今までの考え方から、実践の仏法への転機となるのであります。そして後に典座教訓を説かしめることへの大きな機縁になるのでありました。そこでこの出合の様子を少し紹介いたしましょう。
道元さまの船を訪れたその老典座は四川省の生まれで、郷里を離れて四十年、昨年阿育王山の典座職を命じられたとのことでありました。時は五月ある日、明日は節目の日に当たるという日でありました。老典座は明日山内の雲水達に麺汁を作って供養しようと考え、その汁のだしとして日本産の椹(桑の実か椎茸か)を使うため、この船に買いだしにやってきたということであります。道元さまは船中の生活が長く、ましてや中国の僧侶に会うなどまれなことであり、よい機会と考え、この老僧に中国仏教について何かと尋ねました。茶をすすめ会話がはずむうち時は夕刻もせまり、老僧は「再見」を告げて立ち去ろうといたします。
道元さまは老僧を引き留め、宿泊をすすめます。さらに道元さまは「あなた様ほどのお方が肝心な坐禅修行や経典を読むなどせずに、煩わしい典座職などなさり、また自らこのようにお働きになるのですか」とお尋ねになりました。するとその老典座は大笑して「外国からきたお坊さん、あなたはまだ弁道修行の何たるかを知りません。文字の何たるかも知りません。」といわれました。道元さまはこの時老典座の言われたことの本当の意味が理解できず、
「如何なるか是れ文字」(文字とは何ですか)
「如何なるか是れ弁道」(修行とは何ですか)
と問い直されました。これに対し老典座は「今あなたが質問されたことをうっかり見過ごしたりしなければ、何時か文字の何たるかを知り、弁道の何たるかを理解されるでしょう」「もし理解できなければ阿育王山を訪ねてください。」と言い残して立ち去られたのであります。
この出合が以後の道元さまにとって大変な影響を与えることになるのは前述の通りであります。後日阿育王山の典座職を退かれた彼の老僧が故郷四川省への帰途、道元さまが修行されていた天童山景徳寺へ立ち寄られました。再会を喜んだ道元さまは再び例の船上での質問を繰り返されました。
「如何なるか是れ文字」
「一二三四五」
「如何なるか是れ弁道」
「偏界曽て蔵さず」
道元さまは老僧の答を聞き文字の本当の意味、弁道修行の本当の意味を理解できたのであります。経を読み、坐禅をすることだけが仏道修行と考えていた己の狭い了見を反省するのでありました。この「一二三四五」とは文字は表面上は一つ一つ意味を持っているのであり、それは個々が独自性を有し、他に置き換えできない絶対的なものであるということであります。しかし、文字というものは所詮月をゆびさす「指」に他ならず、月こそ覚りであるということであります。また「偏界曽て蔵さず」とは真実はつつみ隠さず、ありのままの姿でこの世界に現れている。無我、空の姿である。弁道修行とはこの大自然の道理に従った生きざまの実践である。従って食事を作ることも坐禅と同じく悟りの大切な弁道修行であるということであります。「偏界曽て蔵さず」という言葉の中に私たちが如何に生きるべきかということを教えているのであります。
(合掌)
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