正法眼蔵発無上心、諸悪莫作より
「佛法の大道は、一塵のなかに大千の経巻あり、一塵のなかに無量の諸佛ましまし。一草一木ともに身心なり。萬法不生なれば一心も不生なり。諸法実相なれば一塵実相なり。しかあれば一心は諸法なり、諸法は一心なり、全身なり。」
「一塵を知れるものは尽界を知り、一法を通ずるものは萬法を通ず。萬法に通ぜざるものは、一法に通ぜず。」
平成二十一年は道元さまが誕生されて八百余年になります。平成十二年、本山はじめ全国各地の曹洞宗の寺院で、道元禅師生誕八百年を慶祝していろいろな法要が行われました。そして平成十四年には道元禅師の七百五十回忌のお年忌(大遠忌)がおこなわれました。五十年に一度の大行事であります。そこで曹洞宗では、この一つの区切りの年に一つのスローガンを掲げました。それは「慕古」(モコ)ということでありました。現代は物質万能、経済優先の時代といえましょう。そして一面、心の喪失の時代とも言われています。「慕古」とはお釈迦様や歴代の祖師方が説かれた、人間のあるべき姿に立ち返れということであります。道元さまは特にお釈迦さま、達磨さま、如浄禅師等、歴代祖師の行持を古仏の行持として慕っておられました。
人間のあるべき姿とは、宇宙の真理に立ち帰ること、佛の真心に沿った生き方をすることであります。現代はテレビなどのメディアによるマスコミ文化の時代であります。そして人間はこのメディアの渦に翻弄されて、自分というものを見失っているのではないでしょうか。正しい眼で物事観ることが大切であります。
それは佛さまの真心(法)を自己の価値判断の基準として頂きたいのであります。
お釈迦様は明けの明星をご覧になってお悟りになった時「有情非情同時成道」と言われました。これはお釈迦様がお悟りになると、天地自然万物の真の姿が正しく観え、お釈迦様がお悟りになる前から山川草木・森羅万象全て佛の現れであります。有情非情とは心を持っているもの、心を持っていないものということであり、天地自然宇宙万物ということであります。道元さまは子供の頃から一つの疑問を持っておられました。このことにつきましては既にお話しいたしましたが、それは「本来本法性 天然自性心」「一切衆生 悉有佛性」という言葉で、それは人間には生まれながら佛性をそなえているという意味の言葉であります。ならばなぜ(人間は本来佛の性がある、つまり生まれながらに佛である、なのに何故悟りを得るために苦しい修行をするのであるか)という疑問であります。この疑問に対して、当時の日本では道元さまが質問された高僧の誰一人として、この疑問に的確な答えを与えることが出来なかったと言われております。このことが道元さまをして正師を求めて宋の国、天童山慶徳寺の住職であった如浄禅師の教えを受けることになるのであります。
「一切衆生 悉有佛性」とは衆生と佛性とを対立的に考え、誰にも佛性があるという意味にとらえなくて、道元さまは一切衆生悉有佛性と一息に読むべきであると説いておられます。悉有つまり全宇宙全存在が佛性である。これは「有情非情同時成道」と同じことを言うのでありまして、悟りを得ると言うことはこのこと(諸法実相)に気づき、正しく物事を観ることができるということであります。それはただ単に観念の世界で観るということではなく、修証一等の修が伴わなければなりません。物事を正しく観るとは「心」が重要であり、これにつきましても即心是佛の「心」であるということを既にお話しいたしました。この「心」をもって物事を観る最上の方法が只管打坐でありました。そうすれば一塵の中にも尽界は開け、全宇宙が無量の経巻となるのであります。これがお釈迦さまのお悟りであり成道であります。
(合掌)
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