正法眼蔵随聞記より (道元さまと良寛さま)
「学道の人は先づすべからく貧なるべし」
道元さまは先師天童山如浄禅師に日夜真実の仏法を求めて接することによってお釈迦さま、迦葉尊者、・・達磨さまと嫡々伝えられた正伝の仏法を、先師如浄禅師から受け継ぎ、これを日本に伝えられたのであります。これが曹洞宗であります。曹洞宗の仏法は「単伝の仏法」と申しまして一人の師匠から一人の弟子に伝えられる仏法であり、現在いうところの「マスコミニケーション」とは異なります。つまり師匠と弟子の二人格の同化であり、これを二面裂破承契即通と申しまして、きわめて厳粛な、余人の入り込む余地のない事実であります。道元さまは単に中国留学と如浄禅師という禅僧との出会いという事実だけで真実の仏法を受け継がれたのではありません。そこには二人格の二人格を越えた嗣法の事実が存在したのであります。この嗣法(仏法を受け嗣ぐこと)とは真実の仏法を体現した師が真実の仏法を体現した資(弟子)にその事実を認め、印可を与えることであります。道元さまは弁道話の中で「諸佛如来、ともに妙法を単伝して阿褥菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただほとけ佛にさずけてよこしまなることなきはすなはち自受用三昧その標準なり。」と申しておられます。これまさに嗣法の極意を述べられた言葉であります。そしてこの文が「諸佛如来」という言葉で始まることが重要であります。諸佛如来とはお釈迦様はじめ、今までに悟りを、開かれたお祖師さま全てであります。しかし、そこに脈々として流れるものはただ一つ阿褥菩提つまり悟りであり真理であります。師匠が弟子に、人間が人間に、如浄禅師が道元さまに悟りというものを教え伝えるのではありません。如浄禅師が悟りそのものになっており、佛そのものになっており、その悟りを道元さまが証するのであります。体現するのであります。つまり悟りが悟りを認め、佛が佛に授けるのであります。これを嗣法と申すのであります。現在でも曹洞宗の嗣法はこの精神が受け継がれており、またいろいろな形式が守られております。
ところで道元さまは師資相承のための心構えとして「学道の人はすべからく貧なるべし」と示しておられます。師匠から弟子が真実の仏法を受け継ぐ為には、よこしまな考えを心に持たず「万事を投げ捨つる」べきであり、これを「唯佛与佛」といい、「不染汚の修証」ともいわれております。
道元さまの仏法を最もよく受け継いだ禅僧の一人に良寛さまがいます。良寛さまは道元禅師没後五百年、二人には直接的な出会いは無かったのでありますが、道元さまの「正法眼蔵」を熟読し禅者、出家者として、貪りを離れ生涯を清貧にまかせ、大愚に徹し、真実の仏法を体顕されたのであります。
越後の出雲崎の庄屋橘屋のわがままな総領息子として生まれ育った彼が悟りを得た良寛さまになるには道元さまのお書きになった多くの書物、とりわけ「正法眼蔵」との出会いなくしては考えられません。良寛さまは「眼蔵」を通して道元きまと出会い、道元さまの悟りを自己の悟りとして体現されたのであります。「永平寺を読む」という良寛さまの詩のなかにその様子がうかがわれます。涙を流し、感動し、一言一句を珠玉の教えとの思いで祖録「眼蔵」などを通して心の師道元さまに出会われたのでありましょう。これが寺泊国上山の五合庵での清貧な暮らしに耐えた事実に結びつくのであります。つまり四十歳から七十四歳まで雪深く厳しく寂しい越後の山奥で暮らすことができたのは、心の師道元さまが居たからに他ならないのでありましょう。
良寛さまは理屈ではない。立身出世も望まない。己を捨てるにはどうすればよいのか真剣に考え、修行されたのでありましょう。愚かしく救われ難いのが私たち人間であります。当時も現在も人間はいろいろな欲望にとらわれ、自縛されております。それではいけないと自らに間い続けたのが良寛さまでありました。良寛さまこそ真の出家者「学道の人」でありました。
「学道の人はすべからく貧なるべし」
(合掌)
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