正法眼蔵弁道話の巻より
「仏家には教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真義を知るべし、・・しかあれば、すなわち即心是仏のことば、なほこれ水中の月なり。即心成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり、ことばのたくみにかかわるべからず。」
ご存知のように道元さまは貞応二年に明全和尚さまと真実の仏法を求めて宋の国に渡られ、如浄禅師より印可を受けられ曹洞の教えを日本に伝えられました。ご帰国は嘉禄三年の秋でありました。師と仰ぐ明全さまが宋の地でお亡くなり、そのご遺骨を胸に抱き、出発地建仁寺へお帰りになりました。そして建仁寺でお書きになったのが「普勧坐禅儀」という教えであります。これは道元さまが帰朝後最初に書かれた開教宣言の教えとも言うべきものであります。それは坐禅の真髄、大切さ、その意義を説かれ、坐禅を普く勧められた教えであります。そして二年ほど後京都深草の安養院に移られ、この「弁道話」を書かれました。それは寛喜辛卯中秋の日でありました。この巻きが正法眼蔵九十五巻の最初の巻きであります。しかし、実はこの巻きが発見されたのは江戸中期京都の華族の家であり、そしてこの巻きは正法眼蔵九十五巻の中で最も重要な三巻の一つに数えられております。すなわちそれは「弁道話」「現成公案」「仏性」の三巻であります。
さて、弁道とは仏道修行とは何かということをはっきりさせるということであります。仏道の悟りに到るには丁度富士山の頂上を目指すようなもので、四方八方どこからでも頂上に到ることが出来るのであります。道元さまはここに引用されましたように、法華経、華厳経などお釈迦様の教えに優劣はなく、対論すべきではないと説かれ教えの深浅などないのだとも説いておられます。道元さまはさらにお釈迦様の教えというのは教義、理屈、思想のみではなく実践こそ大切であり正しい修行こそ大切であると説いておられます。実践を伴わない教義というものは水に映る月影のようなものであり、鏡に写る影のようなもの、月を指さす指のようなものであって無意味なものであると説いておられます。
ところで修証義第五章にあります「即心是仏」というのは、心がそのまま仏であるということであります。ここにあります「即心是仏」も同様の意味であります。ただし、この心というのはとかく私たちが日常そうでありますような、欲の皮が突っ張った自己中心的な心ではありません。いま、この「心」というのは、心の奥の奥に有るところの純粋な心という場合の「心」でなければなりません。それが仏教で言う「即心是仏」の「心」であります。それを仏教では「仏性」とも申します。そればかりでなく仏教では存在するもの全てがそれを持っているといい、それによって作られているのが世界であり、人間であるといいます。それは心理学的対象たる心とは異なります。この奥に潜む心の究明が出来た時に私たちは悟りに達したといいます。そして更にこの「心」を「身」と同義ととらえ、即心是仏の「心」が身に漲っているところの身体全体が仏であるといい、「即心是佛」を「即身是仏」ともいいます。
即心是仏の教えは大日如来を本尊とする真言密教の教えとしても伝えられております。道元さまはこれに即身是仏の考えを同義とされました。身心一如とか、修証一等というのはこれであります。身をもっての坐禅・修行実践そのものが証であります。先仏の護持された「行持」そのものの実践継承こそが悟りであり「心」と「身」であります。かつて道元さまが宋の国に渡られたとき、慶元府の港で出会った阿育王山の典座和尚さまとの対話にあります、「如何なるか是文字」「一二三四五」「如何なるか是弁道」「遍界嘗て蔵さず」の言葉がありますように、この世にありますあらゆるものは、ことごとく生きた文字であり、私たちに悟り、真理を語っているのであります。仏教は理屈ではありません。仏道であり、天地自然全てが仏であり、真理であります。即心是仏・即身是仏の実践継続・行持こそ仏道であります。
(合掌)
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