曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵坐禅儀より

 

 「思量 箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の要術なり。坐禅は修禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり」
 この巻は「寛元元年十一月越前吉田郡吉峰寺にて説示」とあります。この巻は坐禅について具体的にその儀規について説かれたものであります。この一節の意味はおよそ坐禅をするとき心に思うことは、それはあれこれと考え巡らす以前の心境、有無の差別観を超越した境地を現成することであります。そのような境地とはどのようにして達成するのかといえば、妄想雑念を離れ、身心脱落して、本来の自己を現成することである。これがすなわち坐禅の心構えであります。坐禅というのは、悟りを得るための手段として、訓練修行するものではありません。それはそのままが大安楽、つまり涅槃、寂静、解脱そのものであります。なんのまじりけもなき修行であり、それが証そのものであります。
 正法眼蔵九十五巻の中には坐禅についての巻が数巻あります。例えば坐禅儀の他に坐禅箴・弁道話・三昧王三昧・自証三昧などがそれであります。また、普勧坐禅儀・学道用心集なども坐禅についての道元さまのお考えを述べられたものであります。道元さまは坐禅箴の中で正しい坐禅について中国の薬山禅師を紹介し、坐禅の本旨を次のように説いておられます。それは薬山禅師が坐禅をしておられた時、(ある僧が「あなたは山のように不動の姿で坐禅をしておられますが、今何を心にお考えでしょうか」とたずねました。すると薬山禅師は「何も考えていない」と答えられました。そごで僧がさらに「では何も考えないとはどうゆうことですか」とたずねました。薬山禅師は「それはあれこれと考えることを超越した境地である」と答えられました)というのであります。道元さまは「坐禅は非思量、即ち思量、情識を超越した解脱の境地である」と説いておられます。悟りを得た禅僧は坐禅中に、例えば物音がするといたします。すると当然その物音を耳に感じます。それは普通の人と全く同じ感覚器官の働きであります。しかし、普通の人と異なることは、次の瞬間にはまた以前の静寂な状態にもどります。つまり心の動揺が全く無いのであります。脈拍の乱れもありません。心の平安が常に保たれているのであります。そして悟りを得た人は、中国の永嘉禅師が悟りの境地をうたわれた「証道歌」にもありますように「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静、体安然、縦ひ鋒刀に遭うとも常に坦々、・・」の境地であります。つまり悟りを得た人は行住坐臥すべて正しい坐禅の境地であって、お釈迦様が悟られた如来禅そのものであり、絶対無為の大人格、絶学無為の閑道人の境地であります。身心一如という言葉がありますが、形だけは正しい坐禅であっても、悟りを目的とした坐禅は真実の坐禅ではありません。真実の坐禅は「作仏をはかることなかれ」、仏となることを目的としてはならないのであります。坐禅そのものが修行であり、坐禅そのものが証であります。修証一如とはこのようなことであり、心が肝心であります。坐禅は作仏を求めない行仏の体現であります。自己が坐禅になり、坐禅が自己になることであります。坐禅と自己が融合一体になることであります。
 坐禅の真髄で私たちは日常生活を送りたいものであります。花の心になって花をつくる。お米の心になってお米をつくる。そこには何の邪念もなく、花を生かすこと、お米を生かすことでもあります。この境地は般若心経の心でもあります。そして禅の真髄でもあります。一日一時でもお仏壇に線香一本を真っ直ぐに立て背筋を真っ直ぐにして、心静かに坐り自己を見つめ直すことが大切であります。

(合掌)

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