正法眼蔵如来全身より
「経巻は如来全身なり。経巻を礼拝するは、如来を礼拝したてまつるなり。経巻にあひたてまつるは、如来にまみえたてまつるなり。経巻は如来の舎利なり。かくのごとくなるゆえに、舎利は此経なるべし。たとひ経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ経巻なりとしらずば、いまだ仏道にあらず。」
この巻は寛元二年(一二四四)二月十五日越前の国吉田郡吉峰寺にて示衆とあります。道元さま四十五歳でありました。この題「如来全身」は、お釈迦様の全身についての道元さまのお考えを説かれたものであります。お釈迦様は八十歳でお亡くなりになりましたが、その最後の説法において、私の死後は私の舎利を礼拝してはならない。「己を拠り所とし、真理・法を拠り所とせよ」と説かれました。法とはお釈迦様の説かれた教えであり、時空を越えた永遠の真理であります。悟りであります。そして悟りを開いた己を拠り所とせよと申されたのであります。この一節の意味は
「経巻はお釈迦様そのものである。経巻を礼拝するとはお釈迦様を礼拝することである。経巻に出会うということは、お釈迦様に出会うことである。経巻はお釈迦様の遺骨・舎利である。であるから仏骨は経巻である。たとえ、この経巻が仏骨そのものであるということを知るとしても、仏骨が経巻であることを知らなければ、未だ仏道を知ったとは言えないであろう。」ということであります。
道元さまはこの巻のはじめに「法華経法子品」の一節を引用されています。それによりますと「この法華経をあらゆるところで説き、読み、書写し、この経の在るところには七宝をもって飾られた塔を建てて供養せよ。塔の中にこの経を安置し香華などを供えて供養し、尊重し、礼拝し奉るべきである。この塔の中に仏骨などを安置してはならない。それは塔(経巻)そのものが如来の全身であるからである。人々がこの塔を見、供養すればそのことが如来に近づくことであり、悟りに近づくことである。」とあります。
道元さまはここで経巻とは、悟りを開かれたお釈迦さまであり、経巻を読み書くことは真理・悟りの現成であると説かれ、自己の面目が経巻と一体になったとき、一切の存在が真理と一体として現成するときであると説かれました。七宝で飾られた塔を建てよということは、真理としての塔を建てよということであり、その塔の高さ、大きさは無量無辺であるといわれました。無量無辺とはこの経巻の功徳の徳の働きが絶対量であるということであります。
道元さまは弁道話の巻で坐禅には「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず」ともお示しであります。もちいずとは坐禅をするには焼香・礼拝・念仏・修懺・看経は要がないと言うことであろうと考えられます。もちろん禅院生.活においては焼香・礼拝・念仏・修懺・看経はおこなわれます。ただ、坐禅について言えば、道元さまは只管打坐、ただひたすらに坐れ、悟りを得んが為に坐るのではなく、ひたすらに坐れと説かれたのであります。したがってこの巻にありますところの経巻を読み書くことを否定したのではありませんし、矛盾することでもありません。道元さまが説かれたのは、坐禅もせずに経巻、語録などのみ読んで、それでよしとしてはならないと言われたのであります。道元さまは「正法眼蔵仏経」の巻では、「諸佛諸祖は経巻にしたがい、善知識にしたがって求道心を起こし、修行を重ねてついに悟りを得ている」と経巻の重要性を強調されました。そしてこの経巻こそお釈迦様の全身であるから恭敬、礼拝せよと説かれたのであります。
(合掌)
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