正法眼蔵梅華の巻より
「いま開演する老梅樹、それ太無端なり、忽開華す、自結果す。あるひは春をなし、あるひは冬をなす。あるひは狂風をなし、あるひは暴風をなす。あるひは衲僧の頂門なり。あるひは古仏の眼睛なり。あるひは草木となれり、あるひは清香となれり」
「先師古仏、上堂示衆云く 瞿曇眼睛を打失する時 雪裏の梅華只一枝
而今到る処荊棘となる 却って笑う春秋の綾乱として吹くことを」(原漢文)
「いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水、および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうぶらすといふことなし」
この巻は仁治四年つまり寛元元年十一月に書かれました。道元さまは師匠如浄禅師と同じく梅の木やその華を愛されたことはその著述によっても知られるところであります。山深い修行道場にあって、しかも辺り一面冬景色の中で、春の到来を予感させる一輪の梅華は僧堂生活者にとってもこの上ない心の安らぎであったと想像されます。しかしながらこの巻においては単に梅華の美しさ、気高さ、香りの良さを愛でるという単純な意味ではなく、一輪の梅華を通じて悟りの世界を説かれるのであります。ここに引用いたしました一節は先師古仏天童如浄禅師の示された仲冬の一句を中心に梅華について説いておられます。
この説の大意は
『いまここで老梅樹のことが開演説示されたのでありますが、老梅樹というものはさまざまに変化、発展、展開し、はなはだ限界のない無端なものである。それは一元的に考えるならばたとえば、急に華を咲かせたり、ひとりでに実を結んだりもする。ある場合には春の情景をあらわし、ある場合には冬の情景を示すこともある。つまりそれらは老梅樹の中に摂せられるのである。ある場合には狂風に吹かれ、ある場合には激しい雨にも打たれる。ある場合には僧侶の丸い頭が通り、老梅樹の中に僧侶が摂せられるのである。このようにすべてのものが老梅樹の無限の展開になるのである。これは古仏の眼睛という立場によってものをあるがままに正しく見るならば、無端無限の展開において、一元としての梅に春夏秋冬が摂せられ、あるいは草木が、あるいは清香が摂せられる。それらはそれらのあるがままの姿において、またはたらきによってあるべきようにあるのである。
先師天童古仏の示されるには、釈迦牟尼世尊が(眼睛を打失)つまり悟りを開かれ、ものごとの真実を捉えられたとき、そして先師古仏にとりましても、一元の世界を展開するには、その季節が幸いにも一面の銀世界であり、その中に雄々しくも、気高くも、またけなげにも一本の老梅樹が、しかも一輪のみ華を開かせている。これを「雪裏の梅華只一枝」と詠まれたのであります。無限に広がった銀世界の中に、只一枝の梅華が現じ、逆に一枝の中に無限の世界が展開する。しかし世間にはこのような世界を見ることの出来ない人は多くいる。これを正しいものの見方に転じて、春綾乱とした世界の展開を願いたいものである。そのようになれば「いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水、および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうぶらずといふことなし」となるのであります。古仏の法輪とは如浄禅師の示衆の一句のことであり、人間は悟りを得るとき、全世界が得道の時節となるのであり、悟りの世界に一元化されるのであって、雲雨風水、および草木昆虫にいたるまでも法益に与るのである』これがこの節の大意であり、雪中に咲く一輪の梅華に託して真如の世界を道元さまが説かれたのであります。一人成仏悉皆成仏の境涯であります。
(合掌)
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