正法眼蔵見佛の巻より
「若見諸相非相 即見如来」
「いまの見諸相と見非相と、透脱せる体達なり。ゆえに見如来なり。この見佛眼、すでに参開なる現成を見佛とす。見佛眼の活路、これ参佛眼なり。」
この巻は寛元元年(一二四三)冬十一月十九日、禅師峰山にて衆に示されました。旧暦十一月十九日といえば雪深き時節であり、吉峰寺では山深くなにかと不自由であり、禅師峰山に移寓されて説かれたものと思われます。
この巻は金剛般若波羅密経の一節より、悟り・真理を如何に見るか、見佛とは如何なることかということを道元さまなりにお説きになられた巻であります。まず金剛般若波羅密経の「若見諸相非相 即見如来」という一節でありますが、金剛経というお経は、「人間の眼に見えるものにとらわれ過ぎると、ものの本当の姿を見誤ってしまう」ということを戒めるお経であります。目に見えるものは必ずしもそれは正しいものではないということが随所に説かれております。金剛経では「諸相は相に非ずと見るは如来を見るなり」と読むのでありますが、道元さまはこの一節をそのように読まず、「諸相非相を見るは、如来を見るなり」と読まれるのであります。つまり道元さまは諸相と非相とをまず別々に考えられ、相には諸相と非相と二つの相があると見ているのであります。諸相とは目に見えるもの、姿形のあるもの、例えば霊験あらたかなる千手観音様のお像はまさに諸相であります。形にしっかりとあらわれているもののことを諸相というのであります。非相とはしっかりと形にあらわれていないもののことをいうのであり、ときには眼に見えないこともあります。そして道元さまはこの諸相と非相と二つの相を見ることが如来を見ることであると言われるのであります。ここの一節の意味は「もし諸相、非相を見るは、如来を見るなり」「いまの諸相を見ることと、非相を見ることと二つの相を見ることが出来れぱ如来を見ることが出来るというのである。この二つの相を見ることが出来て、はじめて見如来、つまり悟りの相、ものの真の姿を見ることが出来るというのである。もののありのままの姿、真理の世界を見、それをすっきりと体得することになるのである。それを如来にまみえるというのである。このように如来を見ることのできる眼力が、すでに現実に活発に開かれている状態を、如来(釈尊)にまみえるというのである。すなはち如来にまみえるだけの眼力をそなえた境地とは、如来と同一の境地を身につけ、参ずる眼力をそなえた境地である。」となります。
見佛ということは如来を見るということと、自己が如来の境地に到るという二面の意味があります。如来というのは釈迦牟尼世尊のことであり、それはまた真理・悟りを体得し、その境地に到達し、その境地に遊戯する者のことであります。そのような境地に人を見るということは、その見る人自体が悟りの境地に到っていなければなりません。諸相と非相とは詰まるところが一つの相なのであります。形有るものとか形無きものとか申しましても、それは因縁所生によって仮にそこに在るのであり、それが諸相であり非相であります。諸法空相とは般若心経の中核をなす言葉であり、教えであります。それは諸相即非相、非相即諸相ということでもあり、諸相を見るとき非相が見え、非相を見るとき諸相を見る、そのような相を見ることが出来る者のみが真理の相が見え、そのような人を真理体得者、如来というのであります。諸法空相と諸法実相とは同じことを意味するのでありますが、そのことが実際に体現出来、体顕出来たならばその人は悟りの境地に遊戯する人であります。
(合掌)
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