曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵随聞記より

 

「無常迅速なり、生死事大なり。暫く存命の間、業を修し学を好まんには、ただ仏道を行じ仏法を学すべきなり」
「今の世、出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に識られんと思ひ、悪事をなしては人に知られじと思ふ。此れに依って内外不相応の事出来る。相構へて内外相応し、誤りを悔い、実徳を蔵して、外相を荘らず、好事をば他人に譲り、悪事をば己に向ふる志気有るべきなり。」
 『示に云く、「三覆(みたびかえそう)して後に云へ」と云ふ心は、おほよそものを云はんとする時も、事を行はんとする時も、必ず三覆して後に云ひ行ふべし。先儒多くは三たび思いかへりみるに、三たびながら善ならば言ひおこなへと云ふなり。宋土の賢人等の心は、三覆をばいくたびも覆せよと云ふなり。言よりさきに思ひ、行よりさきに思ひ、思ふ時に必ずたびごとに善ならば、言行すべしとなり。衲子もまたかならずしかあるべし。
 我ながら思ふ事も言ふ事も、主にも知られずあしき事も有るべき故に、先ず仏道にかなふやいなやとかへりみ自他のために益ありやいなやと能々思ひかへりみて後に、善なるべければ、行ひもし、言ひもすべきなり。行者若しこの心を守らば、一期仏意にそむかざるべし。・・今の学者知るべし、決定して自他のため仏道のために詮有るべき事ならば、身を忘れても言ひもすべきなり。その詮なき事をば言行すべからず。』
 人生五十年とは昔の話。医学の進歩によって、かつての金さん・銀さんを待つまでもなく今は九十歳以上の方もかなりおられます。しかし、百歳以上生きようがやはり人間はいつかは死ななければなりません。人の生まれるということと死ぬということはどうしようもないこと、例外の無い事なのであります。
 このような話があります。人間も他のあらゆる動物も一生の間に行われる脈拍は同じ数であるということだそうでありまして、一生の間に十五億回から二十億回脈拍を打つのだそうであります。例えば寿命の短い二十日鼠も寿命の長い鯨も同じ回数の脈拍だといわれます。鯨は一分間に五・六回、鼠は一分間に五・六百回ということであります。人間も天寿を全うした場合このことがあてはまります。そして十五億回から二十億回脈拍を打てばそれで終わりと言うことでありましょう。これはどうしようもないことであります。ただし病気とか事故でなくなるのはこの計算があてはまりません。健康で天寿を全うしたいものでありますね。しかし天寿を全うしたからといって、己の生涯を振り返って見るとき、果たして自他に意義有る一生であるかどうかは別の問題であります。死は因縁によって己に巡ってまいります。厳密には死は己の自由になりません。自由になるのは如何に生きるかということであります。
 二十一世紀は日本人にとって心の世紀でなければならないと言われています。つまり二十世紀があまりにも物質文明が発達し、物質万能経済優先の時代が到来し、欲しいものは何でも手にすることができる夢のような時代になりました。しかし、その反面世界では南北問題を抱え、また人々は幾つもの戦争を体験し、民族や宗教、経済の問題等が原因で互いに殺し合い、多くの悲劇を経験し、多くの尊い人命が失われました。国内でも大人も子供も背筋の寒くなるような社会問題が起こりました。そして、今でもこの事が続いています。これらは全て人間の自己中心的な欲望を満足せんがために引き起こされた悲劇であります。人間には五欲というものがあります。つまり性欲、食欲、睡眠欲、出世欲、物欲であります。これを心がけ一つで正しくコントロールすることができるのも人間であります。他の生き物は本能的に自己管理しています。人間だけが何故これが出来ないのでしょうか。
 曹洞宗がスローガンとする人権・平和・環境は私たちが二十一世紀も最も心しなければならない問題であります。特に昨今はさまざまな社会問題が起きております。それらはほとんど人間としてあるべき姿、心を喪失しているような気がいたします。そして私たちは情報化社会の渦の中に翻弄されているのです。そしてその情報を正しく処理できなくて、やって良いこと、やってはならないこと、やってもやらなくてもよいことなど行動の価値判断が十分に出来ない日本人が多いのではないでしょうか。
 ここに紹介いたしました随聞記の一節は、この限られた生涯を、そして而今を如何に生きるかの一例を説かれたものであります。内容は平易な文章でありますので解説は省略させていただきます。

(合掌)

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