正法眼蔵即心是仏の巻より
「正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり、・・即心是仏
とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」
ここで言う「心」とは仏そのもののことであります。そして仏とはお釈迦さまや道元さまはじめ歴代の祖師方が悟られた「普遍の真理・真如」であります。一切の存在は固定的なものではなく、常に因縁和合によって仮にこの世に姿を現しているのであり、常に変化しているものであります。一切は空なのであり、それを菩提樹下において悟られたのがお釈迦さまであります。道元さま瑩山さまはじめ歴代のお祖師さまであります。真理の体現者が仏さまであります。
さて、この「心」を「仏性」ともいい、それは仏たるべき心性、一切衆生が本来具有せる理性のことであります。この「心」は固定的な実体ではなく、衆生が本来具有しそして、正しく修行するとき体現されるのがこの「心」であります。
人間本来仏性を具有するならば厳しい修行など不必要ではないかという疑問があるのですが、これを「本覚思想」というのでありまして、これを道元さまは厳しく否定されました。修証一如といいまして、修行と悟りとは等体であるとされました。
さて「一心法一切、一切法一心」につきまして説明をさせて頂きます。心即仏法ということはお釈迦さま以来歴代のお祖師さま方が正しく伝えてこられ、護持してこられたものであります。心即仏は天地万物の上に現成しており、万物のあるがままの姿が「仏」であり、「真理」であります。これを道元さまは「悉有は仏性なり」といわれました。この真理、天地万物の実相こそ「心」であります。宇宙の実相であります。宇宙は一心であり、一心が一切万物であります。
ところで現代社会は、主体的自己の確立ということが大切であるといわれています。確かにそのことは大切なことであります。現代は情報化社会といわれ、情報が世の中に氾濫しています。そしてその情報をほとんど丸のみにしているのが私たちではないでしょうか。このような時には、その情報の正邪を正しく処理して、正しい判断に基づいて自己の行動を律することが重要なことでありましょう。しかし、一方で相手の存在に目をやるゆとりも必要なのであります。確かに今日の日本は主観と客観とを厳然と区別することによって、科学文明は飛躍的に発達し、豊かになりました。人間は主体的自己を確立して、自然や社会や他人を利用すべき「もの」として客体化することによって、豊かな社会を作りました。自然を征服し、他人や他の生き物を征服することによって物質的に豊かになりました。しかし、これが本当の豊かさといえるでしょうか。人間の欲望には際限がありません。欲望は無限に拡大し、そのことが己を縛り無限に苦しむのであります。
道元さまは悉有の一悉が己であるといわれ、山河大地、森羅万象の一つが己であるといわれています。そこには奢りも、偏りも許されません。唯ひたすらに真理を体顕するために不断の精進を続けなければなりません。発心・修行・菩提・涅槃こそ諸仏の行じられたことであり、諸仏そのものであります。道元さまは「たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり」といわれました。一瞬の間の発心・修行・菩提・涅槃であっても即心是仏であるということであります。このことは修行は一瞬たりとも怠るなということでもあります。今も朝三時頃には起きられ、一人静かに坐禅をされます。禅師さまは生涯修行であるということを申されました。かつて禅師さまに拝問し、お部屋を辞するとき禅師さまは「昨日木の芽峠に行き、帰りに草餅を買ってきた」ということで、手ずから草餅一箱を私にくださいました。木の芽峠はかつて道元さまが、お病気で永平寺から京都へお移りになられた時、弟子義介さまがお見送りをされた峠であり、弟子義介さまにとっては、道元さまとの最後のお別れとなったゆかりの場所でもあります。私は宮崎禅師さまの心のやさしさ、心配りに感激致しました。そして百七歳になられた今もなお修行を怠らない、修証一如のお姿に心を打たれました。
(合掌)
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