正法眼蔵有時の巻より
「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。丈六金身これ時なり。時なるがゆえに、時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり。時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。…われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭頭物物を時時なりとしょ見すべし。・・このゆえに同時発心あり、同心発時あり、および、修行成道も、かくのごとし。・・有時みな尽時なり。有草有象ともに時なり。時時の時に尽有尽界あるなり。・・いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。」
今日は道元さまの言葉の中でも最もむつかしい有時の巻のお話をいたします。この巻は道元さまが修行僧に説いて聞かせたものではなく、自分自身に対して時間と空間についての考えをまとめたものであります。今というものは去来する時間と無限の空間と我との接点にあることは確かであります。今を去ること二千五百年、大聖釈迦牟尼仏はインドの釈迦族国の王子として生をうけ、三十五歳の時、菩提樹下にて悟りを開かれ、その教えを世の人々に説かれたと言われています。これもまさしく二千五百年前の時間と空間と釈迦との接点に起こった事実でありましょう。つまり道元さまは涅槃経等によりお釈迦さまの教えをふまえ、それを「時すでに有なり、有はみな時なり」と一語で簡潔に説いておられます。この道元さまの時間論につきましては、後年西洋の哲学者ハイデガーという人が存在即時間と定義つけていますが、道元さまはすでに七百余年まえにこのことを説いておられるのです。しかも道元さまとハイデガーとの相違は宗教と哲学との相違であります。道元さまは人間この時間と空間を如何に生きるかという宗教者としてのとらえ方であります。
さて、「丈六金身」とはお釈迦さまであります。つまり時がなければお釈迦さまもこの世に出現されませんでした。お釈迦さまは二千五百年前の時の荘厳でありますし、現在もその光は輝いています。その輝きとは悟り、真理であり、時空を超越しているのであります。したがって未来もまた輝くことでありましょう。
三頭八臂とは頭が三つ手足が八本の姿を持つ仏さま、衆生済度のために憤怒の相を現された仏さま、これも又時であります。そしてわれわれ凡夫の自我、我執にさいなまれるそれも時であり、いわゆる十二時に一如であります。十二時というときの長遠短促、時間が長いとか短いというのは一般の人はこれを疑いなく時間といっています。
そして道元さまは「われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭頭物物を時時なりとしょ見すべし・・」と申されました。つまり天地万物はわれを列べたものであり、それを自分で眺めているようなものであると説かれました。
天地万物が時であるならば自己も時であり、その自己が発心すれば天地万物も同時発心するのであります。同心発時、自他の境界がなくなるのであります。これは修行についても同様であり、成道についても同様であります。これはつまり自分が菩提心を起こせば全宇宙も菩提心を起こし、自分が悟れば全宇宙も悟るのであるということであります。そして菩提心を起こすのも時間であり、悟りを得るのも時間であります。そしてその逆もまた時であり、貧の心を起こせば全宇宙が餓鬼道となるということになります。道元さまは時間の重要性を懇切に説いておられます。この世の全ては固定的な実体など一つもありません。すべて因縁所生であり、一時も留まることがありません。
しかし、丈六金身はやはり光明荘厳であり、輝いています。「時すでに有なり、有はみなこれ時なり」お釈迦さまの時、道元さまの時、そして自分の時と、時は流れているのですが輝くことも出来るのです。
又一方、時は去来などしないとも説かれています。これは一時が一切時を包含し即今の一大事因縁であり、われすでにあり、時さるべからずであります。
道元さまは時は去来の相の肯定も否定もされませんでした。それはどちらにしても結論がおなじであるからであります。
「時すでに有、有はみな時なり」です。
時は流れの相であり、吾がここに今存在する時は全世界が現成するのであります。吾有時を如何に生きるかということが一大事因縁であります。一佛両祖の教えの要諦はここにあるのであります。
(合掌)
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