正法眼蔵生死の巻より
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」
この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻であります。そしてこれを書かれた年月もはっきりしてはいません。しかし、道元さまの生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされています。この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、これは修証義のはじめの言葉でもあります。私たちにとって生死の問題を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題であります。この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実であります。そして如何に死を迎えるかということが大切でありましょう。それは如何に生きるかということでもあります。正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」とあります。つまりこれこそが仏教の根本問題であります。
「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元さまの生死観が言い尽くされています。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、真理の外に生死はないということであります。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」という意味であります。ここに引用させていただきました言葉の大意を現代語に訳します。
「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨てようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれてゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて生死を離れることができ、仏となるのであります。
「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」
これが現代語訳であります。生き死ぬということ、つまり生滅ということは大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常こそ世の道理であります。このことがわかり、而今を全機に生きるならば「生死なし」であります。これは物質的な生死は人間だれしも避けられませんが、それを厭いまた願うという執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは心安らかで、まさに悟りの境地というべきでしょう。
「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめなりけり」という古歌があります。生も大宇宙の真理、死も大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということが私たちに与えられた永遠のテーマであります。日々仏法僧の三宝に帰依する生活を送りたいものであります。
(合掌)
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 次のお言葉 | 42 |