正法眼蔵嗣書の巻より
「仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単伝なり。このゆえに、無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するにあたはず、仏の印証をえざれば仏となることなし。仏にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上なりと印することあらん。
仏の印証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟するなり。このゆへに、仏仏証嗣し、祖祖証契するといふなり。」
この巻きは道元さまが先師天童山の住職如浄禅師より正しい仏法を受け継ぎ、わが国に曹洞宗を正しく伝えられた時の様子と嗣法の心について述べられた巻であります。仏法を継承することを嗣法といいますが、曹洞宗ではこの嗣法を大変重要なものと位置づけています。これが乱れたならば、仏教が堕落しかねないからであります。大変厳粛なものであります。
曹洞宗では仏法を正しく伝えた証、つまり嗣法の証として師匠は弟子に「嗣書」というものを与えます。しかし、それは単に形式だけのものであってはなにもなりません。法を嗣ぐことが「嗣法」でありますが、道元さまはこの嗣法こそ最も厳粛で大切なことと説かれています。つまり嗣法とはどのようなものであるか、その本当の意味、心はなにであるかということを、この嗣書の巻とか、面授の巻で説かれました。これが正しく行われなければ仏法の堕落につながり、衰退につながるからであります。当時すでにわが国の仏教は堕落が始まっていたということで、道元さまはこのことへの危機意識をいだいておられたということであります。ここで、この文の意味を一応現代語訳いたします。
「お釈迦さまから歴代の仏さまやお祖師さま方が仏法を嗣ぐときは悟りを得た仏が仏に嗣法し、悟りを得た祖師が祖師に嗣法いたします。それは師の悟りと弟子の悟りが一致合体することであり、これを証契即通といいます。それは一人の師が一人の弟子にのみ法を嗣ぐ単伝であります。だから最上の菩提つまり悟りが成就するのであります。この最上最勝の菩提は悟りを得た仏仏祖祖でなければ弟子の悟り、菩提を認証する資格がなく、それはできません。仏の認証を得なければ仏となることができません。したがって悟りを得ない人を最尊者などということはできません。
この認証、嗣法を得る時、無師独悟することになります。つまり師と弟子が、円融合体、一如になるのであります。師と弟子は「さとり」そのものになるのであります」
現代語訳は以上のようになります。ところで道元さまが如浄禅師から印可証明をいただいたのでありますが、嗣法は面授であります。嫡々の正法を正しく伝えてゆくには、形はともかく師と弟子が対面し、心の絆が一致合体しなくてはなりません。これを二面裂破証契即通といいます。二人の人格が悟りということで一つになるのであります。これを無師独悟・無自独悟といいます。師資つまり師匠も弟子もいない、ただ法があるだけであるというのであります。しかし、形式としての嗣書もまた大切なものであります。道元さまは龍門仏眼派の嗣書を閲覧する機会があり、大変感激されています。正師を求めて中国宋の国に渡り、ついに求める生涯の師、如浄禅師に出会うことができます。これはまさに因縁としかいいようのない、眼に見えない不思議な糸で二人は結ばれていたといえましょう。如浄禅師は道元さまを一目見るなり、吾が仏法はこの日本から来た僧侶に伝えようと心に決められるのであり、道元さまは如浄禅師こそ長い間、さがし求めていた正師であると直感し、感激の余り眠れなかったといわれます。
「宝鏡記」という道元さまが宋の国での求法の様子を書き記した日記に次の様なことが書かれています。ある時道元さまは本師如浄禅師に仏道についてたずねることの許可を求めました。如浄禅師は道元さまに「あなたは今後昼夜を問わずいつでも、袈裟もつけなくて普段の服装で私の部屋へ来て、たずねたいことがあればなんでも質問しなさい。わたしはあなたを父親が子供の無礼を許すように許して、あなたを迎えましょう。」と言われました。これは師如浄禅師が如何に道元さまが求法の道念があつく、また器量、知識も深いことを見抜いていたからでしょう。道元さまは如浄禅師から印可を受け「身心脱落」という言葉を残しておられます。これは如浄さまと道元さまとの二人格が一つになったことを意味しています。この巻は現在の仏教寺院内のこととのみ片付けられない、現代社会に対する一つの問題、テーマをも投げかけているようにも思えます。
(合掌)
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