正法眼蔵帰依仏法僧宝の巻より
「この帰依仏法僧の功徳、かならず感応道交するとき成就するなり。・・すでに帰依したてまつるがごときは、生生世世、在在処処に増長し、かならず積功累徳し、阿褥多羅三藐三菩提を成就するなり。・・帰依三宝の功徳、つひに不朽なり。その帰依三宝とは、まさに浄信をもっぱらにして、あるいは如来現在世にもあれ、あるいは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して、口にとなへていはく、・・今身より仏身にいたるまで、帰依仏、帰依法、帰依僧、帰依仏両足尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊、帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟、・・・身心いまも刹那刹那に生滅すといへども、法身かならず長養して、菩提を成就するなり。いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依伏なり。・・仏はこれ大師なるがゆえに帰依す、法は良薬なるがゆえに帰依す、僧は勝友なるがゆえに帰依す。」
仏教徒にとって仏法僧の三宝に帰依することは全ての出発点であります。この帰依三宝につきましては修証義第三章受戒入位にもありますように、私たちが守るべき十六条の戒法の最初の三つがこの帰依三宝であります。戒と申しますと何か堅苦しく感じられますが、それは決してそのようなものではありません。人間としての本性に立ちかえり、真理を呼び覚ますことであります。ここに紹介致しました道元さまのことばを現代訳いたします。
「このお釈迦さまはじめ悟りを開かれた、真理を体得された仏に帰依し、真理、仏の悟りである宇宙悠久の道理に帰依し、またこのことを信奉する人々に帰依することの功徳は自己とこの仏法僧の三宝と感応道交、冥合一体、仏菩薩とわれとが一つになるとき成就するのである。すでに帰依し奉れば、この功徳は世のある限り増長し、かならず功徳を積み重ねて悟りを成就するのである。・・帰依三宝の功徳は不朽である。帰依三宝というのは清浄無垢なる信仰を専らにして、たとえお釈迦さまが生きておられた時であろうと、お亡くなりになられた後であろうと合掌し頭を深くたれ、礼拝して、今身より仏身にいたるまで次の言葉をとなえるのだ。
帰依仏、帰依法、帰依僧
帰依仏両足尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊、
帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟
自己の身心は刹那刹那に生滅するはかないものではあるけれども、仏法僧の三宝に帰依することによって、永遠不滅の仏の身心が成長して、悟りを成就するのである。いわゆる帰依の帰ということは帰投といい仏の懐に身心を投入れること、おまかせすることである。依とは依伏といいこれも自己を仏に依拠することである。仏は人類の救済者、闇を照らす光明であり、偉大なる師であるから帰依する。その教え、法は人類救済の良薬であるから帰依する。僧はその教えを体現し、他者を化導する優れた集まりであるから帰依するのである。」
これがここで紹介し、引用させていただきました言葉の現代語訳であります。混迷する現代社会において何をよりどころとして生きたらよいのでしょうか。何に手を合わせたらよいのでしょうか。それにはまず、この仏法僧の三宝に対する純粋な信仰と帰依、それに基づいた生活実践であります。
まず仏とは何でしょうか。それは宇宙悠久の真理に目覚め、悟りを開かれたお釈迦さまであり、その法を単伝された祖師を意味し、覚者(佛陀)を意味します。全ての人は仏に成ることができるとの希望を人々に与え、その生き方を説き示された方であります。即心是仏という言葉がありますが、それは私たちの心はそのまま仏であるということであります。仏様の心、菩提心と孝順心にもとづいた実践行、真理に目覚めようとする人は誰でも成等正覚、悟りを得、正しい智慧が身につき人格が完成するのであります。このような人を尊敬し、自己の目標とするのであり、帰依するのであります。次にその教えを聞き、それを信奉帰依するのも当然であります。またこの仏の説かれた法を信奉し、実践修行する和合の衆を尊敬するのも当然であります。僧とは本来和合の衆を意味し、和合とは実践を通して自己が真理と融合合体する者を意味します。この帰依三宝こそ大乗菩薩戒の第一であり、仏道修行の出発であります。
(合掌)
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