正法限蔵即心是仏の巻より
「仏仏祖祖いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。・・仏祖の保任する即心是仏は、・・唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる。聞著あり、行取あり、証著あり。・・かくのごとく正伝して今日にいたれり。いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。・・いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・.未来の諸仏、ともに仏となるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」
この巻は修証義の最後の節に、修証義のまとめとして引用されている巻でもあります。このことは即心是仏こそ私たち仏教徒の最終目標であるからであります。この巻は道元さま三十五歳の時、興聖寺において説かれたものであります。即心是仏ということは、この心がそのまま仏であるということであります。
ここで一応これらの引用文の現代語訳をさせていただきます。
「お釈迦さま以来歴代の仏祖がどなたも例外なく保持し、正しく伝え来ったものはこの即心是仏のみである。・・・・・この仏祖の保持し、伝え来った即心是仏は悟りを開いた仏祖から祖師に嗣法し、正伝され究め尽くされ、聞き、実践し、体験し来ったのである。・・・
このように釈迦牟尼仏より正伝して今日に到ったのである。ここでいう正伝し、嗣法し来たれる即心是仏の「心」というのは一心が一切のものごとであり、一切のものごとが一心であり、そして全存在、森羅万象が真理である。
ここでいういわゆる諸仏諸祖というのは釈迦牟尼仏に帰一するということであります。つまり釈迦牟尼正伝の仏法を正しく伝えし諸仏諸祖、釈迦と同じく真理を究めし諸仏諸祖は即ち釈迦牟尼仏と同一である。それは即心是仏でもある。過去・現在・未来の諸仏ともに悟りを開くときはかならず釈迦牟尼仏となるのであり、真理に帰一するのである。」これが現代語訳であります。即心是仏というのは心即是仏ともいい、この「心」とは即ち仏であり仏性であります。さきに申しましたように道元さまはこの巻の最初に、諸仏諸祖が護り正しく伝えて来たものはこの「即心是仏」のみであると言い切っておられます。これが仏道の根本精神であります。ここでこの「心」ということが問題になるのでありますが、正しい即心是仏の「心」とは未だ仏法を求める心のない迷える凡夫の「心」もそのまま仏であるというのではありません。これも同じ「心」ということになれば外道の説と同じになってしまいます。道元さまはこのことに関しましてつぎのように説いておられます。
「即心是仏とは、発心(悟りを求める心、菩提心を起こすこと)・修行・菩提(悟り)涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。」と説いておられます。このことは凡夫そのままでは即心是仏とは言えません。この四つの段階を経なければ即心是仏とは言えません。そしてこの即心是仏というは釈迦牟尼仏のことであります。つまり三世十方のさまざまな仏さまはお釈迦さまに帰一されるのであります。仏さまのまごころに生き、戒法を受け、発菩提心して仏心に住して菩薩道を行じて行くとき、私どもも即心是仏そのものになるのであります。それがとりもなおさず仏さまへの報恩であります。そこには無限に連続しなければならない、仏のまごころで生きる行があります。
よくよく彦えてみれば仏さまは私どもの中に顕現してくださるのであります。私たちが発心・修行・菩提・涅槃という行を繰り返すならば、そこには自ずと即心是仏が現れるのであります。たとえ少しの行、一瞬の行であってもそこには即心是仏が現成するのであります。
道元さまは「心」ということを非常に大きくとらえ一切法一心、一心一切法と説き、心は大宇宙の真理であるといい、一方一瞬の行にも、極微の行にも心があるとも説いておられます。心とは何かということを参究することは私たちにとって一生の大事であります。
(合掌)
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