曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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道元禅師
道元さまのお言葉

正法限蔵全機の巻より

 

 「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。・・・現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成あらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。・・・生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり死あるなり。しずかに思量すべし。」
 この巻は道元さま四十二歳仁治三年に京都の六波羅の波多野義重公の屋敷にて波多野氏に説示されたものであります。波多野氏は道元さまに越前永平寺を開基された鎌倉幕府の御家人であり、道元さまはこの武人に対して生死に対する心構えを説いたものであります。仏道の究極は生死の透脱であり、徹底した自己否定であります。それによって徹底した自己肯定の現成となるのであります。透脱とは一切の執着を離れ、一切の繋縛から解き放たれ、自由になることであります。生は生に成りきり、死は死に成りきることであります。ここでこれらの文の現代語訳をさせていただきます。
 「歴代の諸仏が究められた究極のものは生死の問題であり、生死を如何に解脱するかということであり、またその現成である。透脱ということは生においては生を解脱し、死においては死を解脱することである。・・・現成とはありのままに生きることである。そのとき命のすべてが現れるのである。死のすべてが現れるのである。・・・生は去るものでもなく、来るものでもない。生はいま現れるものでもなく、成立するものでもない。しかし、生は生の全ての体験であり、生のみである。死は死の全ての体験であり、死のみである。自己の内に量り知れない世界がある中に、生があり死があるのであることを知るべきである。」
全機というときの全とは全宇宙、機とは絶大なるはたらきのことであります。つまり全機とは全宇宙のはたらきであり、真理であります。そして生死の現実は全宇宙の真理であり、はたらきであります。仏教者はこの生死を究め尽くすことが究極の目標であります。
仏道修行における悟りとはこの生死を透脱することであり、それを生活に実践することであります。透脱とはそれにとらわれず、解脱することであり、例えば生のときは生になりきり、生に徹底することであります。宇宙の真理たる生という現実になりきり、あるがままに生きることであります。これと同じく死のときは死になりきることであり、死の現実をあるがままに受け入れることであります。
 これを生死透脱、生死解脱、生死遠離、生死即涅槃というのであります。修証義の最初の節にもこのことが説かれています。つまり仏道はこの生死にとらわれることなく解脱し、自他ともに救われることが究極の目標であります。
 道元さまは「生も一時の位なり、死も一時の位なり」と申され、生は生であり生は去来するものではなく、生が死にかわるのでもない。生は生のままの全のはたらきであり、死は死のままの全のはたらきであります。これを生の全機現、死の全機現というのであります。われわれは生死の現実は大宇宙のあるがままのはたらきであるということを知るべきであります。
ところが、あるがままにはたらけないのがわたしども人間であります。例えば生に執着して苦しみ、生という囲いを透脱出来ないのが現実であります。それを透脱できれば生に苦しむこともなくなるでしょう。老病死の苦しみも同じであります。わたしどもがどのように生きるかが問題であります。

(合掌)

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