正法限蔵光明の巻より
「仏祖の光明は、尽十方界なり。尽仏尽祖なり。唯仏与仏なり。仏光なり、光仏なり。仏祖は仏祖を光明とせり。この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す」「尽十方界これ自己の光明なり。尽十方界は自己の光明の裏にあり。尽十方界、これ一人の自己にあらざるなし。仏道の参学、かならず勤学にすべし。転疏転遠なるべからず。」
「明明の光明は百草なり。」
「尽十方界は是自己なり、是自己は尽十方界なり。」
「人々ことごとく光明の在るあり。」
この巻は仁治三年六月二日、興聖宝林寺において、三更四点といいますから、夜の十一時半過ぎに修行僧達に説かれたものであります。時は梅雨期旧暦六月、外はしとしとと降る雨の音、軒先よりしたたり落ちる滴水の音が道元さまの説示の声とともに聞こえてまいります。
なぜ道元さまはこのような夜中に僧を集めて、この光明の巻を説かれたのでしょうか。十一時半といえば陽の終わりの時間、陰の始まろうとする時間であります。なにか象徴的なものを感じさせるものがあると思われます。世の中は陰と陽に分けられます。そして光明は陽であります。人間は陰から陽に向かって進むのが常であります。そしてお釈迦さまはじめ歴代の祖師方は全て陽であり、光明を放っておられました。目に見えない光、エネルギーを持っておられました。例えばお寺におまつりされている仏さまには後背があり、光の輪がありますが、これが光明であります。
道元さまは「仏さまやお祖師さまの光明というのは一切世界のことであり、一切世界は佛であり、佛は真理の体現である。それは光明であり、光明を放っている。悟りをひらかれた仏祖はすべて光明である。光明が光明に、仏が仏に仏法を伝えて来たのである。この光明を体現するために修行するのである。」と言われ「一切世界は自己の光明であり、自己の光明の内にある。一切世界のものごとで自己でないものはなく、自己即一切世界、一切世界即自己である。悟りを求めようとするものは怠けることなく勤勉に学習し修行すべきである。」「光り輝く光明は百草であり、百草とは一切世界である」そして「だれしも人々には光明があるのだ」と説かれました。
例えばお釈迦さまには多くの弟子がありました。そのお弟子さんはお釈迦さまの姿を一目拝むだけで自然に引き寄せられ、法を聞く前にすでにその弟子になっていたとさえ言われます。永平寺や総持寺の禅師さまがお授戒会などにお越しになり、そのお姿に接するだけで自然に手が合わさるものです。これが光明であり、よく言われる「オーラ」というものでしょう。禅師さまから目に見えないエネルギーが出ているのであります。道元さまはじめ各宗の開祖さまにも、この光明が放たれていたのであり、陽気が放たれていたのであります。
道元さまは一切世界が光明を持っており、それぞれがあるがままに真理を現しているといわれ、光明を放っていると説かれました。
例えば現代社会においても、繁栄する会社は社長さんが陽であり、光を放っているものであります。トップが暗く陰気であれば自然にエネルギーがなくなり、会社は衰退するものであります。家庭でも社会でも同じことが言えるでしょう。トップがしっかりして光明を放っていることが国栄え、社会や家庭が繁栄することになるのであります。したがってこの光明を放つように指導者をはじめ世の人々はだれしも精進しなければならないのであります。
正法眼蔵一顆明珠の巻にも「全身これ真実体なり・・全身これ光明なり」という言葉がありますが、光明はだれしも持っているものであり、これを本来の面目といい、仏性といいます。光明を顕現させ、諸仏諸祖の光明と一体化しなければなりません。道元さまは当時宇治で修行しておりました修行僧に対してこの巻を説示されたのではありますが、このことは現代社会に生きる私たちも心しなければならないことであります。
(合掌)
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