正法眼蔵諸法実相の巻より
「佛祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり、如是性なり。如是身なり、如是心なり。如是世界なり、如是雲雨なり。如是行住坐臥なり、如是憂喜動静なり。」
「釈迦牟尼佛言、唯佛与佛、乃能究尽、諸法実相」
「唯佛与佛は諸法実相なり、諸法実相は唯佛与佛なり。」
道元さまの詠まれた歌に「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」という一首があります。この歌の意は、この世の全てのものは、本来純粋であるべきであり、作為されない、あるがままの真実なるいのちをそなえている。この真実なるものは常に、偽りのない姿を現じているのであり、それが尊いのであるということであります。これを本来の面目ともいいます。
この巻は寛元元年(一二四三)九月示衆とあります。つまり道元さまが越前に移られて数本目の眼蔵であり、未だ道元さまは、なにかとお忙しい日々のうちに説かれた巻であります。何故か九月の何日かが書かれていないのであります。
この巻は法華経の根本精神たる諸法実相が表題となっています。この諸法実相という言葉は法華経方便品の中の「唯佛与佛、乃能究尽、諸法実相」とあることに由来いたします。この言葉の意味は「ただ佛と佛とのみが、すなわち能く、諸法の実相を究め尽くす」ということであります。つまり覚者のみがものの本当の姿、あるがままの姿を観ることができるのであるということであり、諸法が本来の面目を現成していると言うことをとらえているということであります。冒頭の道元さまの御和歌も本来の面目の現成を詠ったものであります。唯佛与佛の巻に「佛法は人の知るべきにあらず。このゆえに、むかしより凡夫として佛法をさとるなし。・・ひとり佛にさとらるるゆえに、唯佛与佛、乃能究尽といふ」とありますように、諸法実相を究め尽くすことが佛法を究め尽くすことであり、それは悟りの境地に遊戯する者のみが知り得る世界であります。ここに引用いたしました一節の大意は
「佛祖つまり釈迦牟尼世尊とはどのような方であり、どのようにして現成されたのであろうか。それはすなはち物事のあるがままの相を究め尽くされた方であり、それが覚者であります。このあるがままの相とは、もろもろの存在のありようであります。この存在のありようは、このような相であり、このような性であり、このような身であり、このような心であり、このような世界であり、このような雲雨であり、このような行住坐臥であり、このような憂喜動静であります。」
「釈迦牟尼世尊は、ただ佛と佛とのみがよく物事のあるがままの相を究め尽くすことが出来るのであると説かれました。」
「唯佛与佛ということは諸法実相であり、諸法実相は唯佛与佛であります」
諸法実相つまり物事のありのままの姿とは、人間の欲望の雲により本当の姿が隠されることのない相であり、自然で申すならば春は花が咲き、夏にはほととぎすがさえずり、秋には澄んだ夜空に月光が輝き、冬には一面に銀世界に覆われると道元さまは詠われるのであります。それが尊いのでありまして、それがありのままの姿であります。人間には四苦八苦というものがありますが、この苦ということは、思いどおりにならないということでありまして、貪欲によりものごとを思いどおりにしようとして、思いどうりにならないために苦しむのてあります。その貪欲のために人間の眼は曇り、正しく物事が観えなくなるのであります。諸法実相は所詮は空相であり、そのことに気づきこだわりを離れることができるならば、人間は安楽の境地に到るのであります。
(合掌)
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